事実と解釈
思い込みを捨てれば楽に生きられる – 宋文洲の傍目八目(日経ビジネスオンライン)
ご存じのように発明家トーマス・エジソンは、お母さんから学校に行かなくてもよいことを教えてもらいました。今風に言えば、エジソンは登校拒否の問題児だったかもしれません。しかし、エジソンの例をみてもおわかりのように、一時は“問題児”であっても、最終的に社会に貢献する例はいくらでもあります。
昨日の「人生の素敵なことは、だいたい最後のほうに起こる。」に少し補足すると、自分にとってネガティブコンプレックスでしかないと思えたことが、ある時それがあったからこそと思うようになる事もある。嫌悪感しか抱かなかったものが、愛おしくなることもある。その時はもう耐えられないと思ったことが、後から見れば忘れてしまうこともある。華やかな舞台の裏には、その上演時間の何倍ものきつい練習があったりするものですし。もちろん、ネガティブコンプレックスが全て解決されるわけではないけれど、クリティカルな物ではなくなる。薄まる、という感じかもしれない。
学校に通うことを当たり前に考えてきた人たちにとっては、理解しがたいことかもしれません。でも、モンゴル草原を走る遊牧民の子供たちは、常に家族と家畜と共に移動生活をしています。教育も、学校ではなく衛星テレビやラジオで受けています。モンゴルの子供たちは、ほとんど家族だけの接触で大人になっていきます。その子供たちを、我々は「社会性を身につけてない」と断じることができるでしょうか。
ここまで大きくなくても、会社を変わると、出会う人間関係が変わり、価値観・カルチャーが変わる。どれが正しいかはなくて、どれが自分に一番合うか、があると思う。そして、会わない環境=悪い環境ではなく、成長できる環境であったりもする。自分を肯定してくれる環境でこそ発揮できる能力もあるし、自分を否定される環境の中で肯定されようとして発揮できる能力もある。
集団になって同質性を確認しながらする仕事もありますが、仕事の本質は群れることではありません。社会と接点を持つことは決して大勢と協調することではありません。どうしても家から出られないならば、しばらく家にこもって仕事をすることもあると思います。
気の持ちよう、ではどうにも変えることが出来ない事も確かにあるけれど、自分が他者に比べて劣っているからと言って悲観しても、自分より劣っている他者を見つけても自分の絶対位置が解決するわけでもない。割り切る出もなく、忘れてしまうでもなく、いったん受け入れて、その中で出来る事を思いこみを外して考えてやっていくしかないと思うんだけど。
