現代語訳 般若心経
-「生まれた」という認識も「滅した」という認識も
ありのままの実相ではなく、じつは脳内に現象した大雑把な「概念」に過ぎません。
解けないほどに絡み合った関係性を、
とりあえず無視してザックリ切った認識と見るしかないのです。-
有史以来どんな文明にも必ず宗教があるのは、人間が死を知ってしまった唯一の生き物だからと誰かが言っていた。自分の死は怖く、他人の死は悲しく空しい。でも、誰にでも必ず訪れる死と向き合うことが、生きることだと思うようになった。これまで陰気くさいと思っていた死や宗教というものが、とても生きるという事に近いものだと思うようになった。
何が善で何が悪か。何が美で何が醜いのか。何が幸せで何が不幸せか。何が生で何が死か。著者はそれら「私」自らが作り出した観念によって自ら苦しみを生み出している人間に、その根源にある「いのちの全体性」を見よという般若心経の心を説く。
理解するのではなく、感じよと説く。理解するのではなく、体験せよと説く。うさんくさい、極めてうさんくさい。でもこんな状況の中では、読んでいてだんだんと気持ちが少し楽になるのも確か。それさえも「私」が作り出した幻想なのか、「いのちの全体性」に近づいているのかはよく分からない。
これは僕の中の「私」の概念だけど、死は生きる事の終わりではなく、死は生きることの一部であると思う。死ぬことまでを含めて生きることだと思う。故に、死を感じる事が生きる活力になる、という言い方は若干誤解を招くが、生きる糧になるといえば少しは伝わるだろうか。

