自分が生きるために。
たかじんのそこまで言って委員会(2006年06月25日放送より)
光市母子殺害事件被告への死刑求刑について、賛成派の死刑を求刑しない場合被害者感情をどうするのか、死刑を認めないなら仇討ちを認めろという問いに対し、反対派の仇討ちを認めると復讐の連鎖になってしまうという文脈の中で。
宮崎哲弥「復讐の連鎖っていうけど、被害者の遺族って言うのは、復讐心じゃないんです。私は本村さん(光市母子殺害事件被害者)からその話は聞きましたけど、何で君をここまで駆り立てているんだと。これはね、自分が有罪だという意識なんだと。つまり、何で妻や子供をあの場所にいて守れなかったんだろうと。」
田嶋陽子「じゃあ何で自分の有罪意識だとして、相手を殺していいの?」
宮崎哲弥「それは購わなきゃいけないんだよ。そうしなければね、本村洋自身が生きていけないんだよ。」
テキストに起こすと伝わらないので、一度動画を見てもらいたいのですが。
人間には、人権という人間自身が己の思考の中で作り上げた権利があると仮定する。仮にそれを手っ取り早く世界人権宣言から持ってくると「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。」という事になる。
確かにその通りだと思う。人には人の命を殺める権利などないと思う。そうだとするならば、汲み取るべき事情がある承諾殺人(人の承諾を得てその人を殺害する=介護疲れによる息子による親の殺害)など一部を除いて、人が人の命を殺めた場合、その人はその時点で人権を行使する権利がないのではないか。
ものを盗んだ場合、そのものか相当するお金でもって償う。そして、抑止の意味も含めて金銭以外の懲役などの罰をもって購わせる。はたして、自分たちが声高らかに主張するもっとも高貴な価値観である人権を侵害された場合、何をもってすれば償いになるのだろうか。それは、その人自身の人権ではないのだろうか。(もちろん、原因の究明は必ず必要という前提で。)
祖父は、天寿を全うしたわけではありませんでした。その時の、怒りでも、恨みでも、悲しみでもない、あえて表現するならば空しさとでもいうべきもの。(なるほど、だからこそ仏教では空という表現を使うのかもしれませんね。)それは、相手方への怒りではない。向こうもしたくてしたのではないだろうし、向こうにも家族や生活があるのだろうし、多少なりとも今まで通りの生活とは行かないのだろうし。本当に、空としか表現できない感情。それが殺人であった場合は、計り知れない。ましてや、若い命であればあるほど。
だからこそ、「そうしなければね、本村洋自身が生きていけないんだよ。」という言葉が僕を揺さぶる。
