「好き」という言葉から生まれた妄想の行方
twitterで、「たった2文字なのに、キュンとしてしまう。言葉ってすごい。」というような事を言っている人がいた。たしかに、文字を書くということは、ただ日本語の漢字やひらがなという記号を並べているだけではなくて、記号を並べることによって単語という意味をつくり、そこから文章を作ることで感情をつくり、その感情を相手に伝え、相手の感情を揺さぶるという事なのかもしれないなぁ。と今更ながら思った。
日常会話然り、人は常に何かを伝えないと生きていけなくて、それを口頭ではなくもっと多くの人に伝えたくて文字が出来たのでしょう、たぶん。ブログを見ていれば、誰かに何かを伝えたいと思っている人の多いこと。そして、それを読んでいる人もいるわけで、誰かの言葉を知りたいと思っている人もまた多いこと。
これだけブログを書いている人が多いけど、ブログを書くためにかけた時間以上アフィリエイトで儲かるなんてほんと一握りの人。ということは、多くの人は、お金ではない何かを見返りにして書いているわけで、それがお金以外、実益以外のものでも人は十分に見返りに値する、そういう生き物なのでしょう。
そもそも大昔にはお金なんてなかったわけで、やはりそれは人が生きる上での本質ではないのでしょう。それは空気のようで、必要ではあるけど、やはり空気も生きる上での本質ではありません。神というものが仮に存在するとして、創世記で人をわざわざ二人作ったことに子孫存続以外の意味があるとするならば、それは他者の存在を認めて、ある時は伝え、ある時は聞き、その感情を変化させながら生きていかせるためなのでしょうか。
それを本質として定めたのか、ただのお遊びだったのかはわかりませんが、現に人はそれをフル活用して正しいこともすればアホな事もして、変化しながら生きてきました。それは必ずしも進化と呼べる物ではなく、時に進化し時に退化しながら、とりあえず今生存しているわけですが、どうせなら、過去から受け取ったその変化しながら生き続けるバトンを、少しでもいい形にしてまわりに、そして次の人に渡していくのがいいことなのかもしれません。
ということで、人が生きるという意味の本質は、何かを伝えることではないかと、会社でクリームコロッケ弁当を食べながら思ったので、今こうして書いています。それは何も言葉だけではなく、仕事で何かを売ってその商品の良さを伝えたり、本を書いて自分の知識を伝えたり。そしてその時の友となるのが考えるということで、その過去の実績が知識なのかもしれません。全てのことは、伝えると言うことの枝葉なのかもしれません。そしてすなわち、生きるということの。さて仕事します。
