鳥はみずからの力だけでは飛べない
-一穂のお母さんはね、どうやら一穂のことを理解して、
受け入れなくてはいけないと思いこんでいるようだ。
それができない自分はダメな母親だと感じるらしい。-
田口ランディが、不登校になった友人の息子に向けて書いた10通の手紙。という本なのだけど、それがただの「設定」なのか、ホントに送った手紙なのか、ネットで調べてみたがよく分からなかった。でもどうでも良くなって、ふと気づくと、元不登校だった自分に戻って、まるで自分に送られてきた手紙のように読みました。
本の中では、田口ランディが、不登校児の一穂の状況や心境について、自分自身の経験(実兄が引きこもって餓死している)の中から少しでも察しようとして、様々な手紙を送る。それは、僕自身の経験に照らし合わせても、その頃思っていたことを言葉にしたらこうなるのだろう、という納得できるものだった。
しかし、田口ランディは社会への参画を求める。自分自身も社会の中で生きていて、それはとても居心地の悪いものだけど、だけれどこっちへ来い、と話す。方や、一穂の母親は冒頭の引用句のように、一穂のありのままを認めようとして良くも悪くもそのままで良いと言い、田口ランディとぶつかる。田口ランディは、自分が経験したことがないことだからと言って強引に理解してしまうのではなく、長い時間をかけて子供と向き合えと母親に諭す。
確かに僕自身も、不登校が決して悪いことではないと思うけれど、不登校になることを推奨したり、不登校の人にそのままでいいよ、とは思わない。ただの反抗期のようにも思うが、単にそれだけでもないと思う。僕の場合は、当たり前にあるいろんな仕組みや慣例に、別に従わなくてもいいじゃないかと疑ってかかったという面もあったように思う。
ただ、いったんそれをしてしまうと、足場を失いとても不安定になる。他者と同じルールで行くことを否定したなら、自由度の代わりに安定性を大きく失う。僕はそれを、とても不器用な生き方だと思うが、それでしか生きられないとも思う。翻って、普通に学校に通って大学に行った人からも、不器用な生き方で、自分はそういう生き方しかできない、という言葉を聞くことがたまにある。不登校も、単なるそういう不器用な生き方の一つなんだろうか、と今は思う。

