「ことば」の素顔
ちょっと前に、コピーにまつわるエントリが福井からふたつ続けてあがっていた。
::: カウベル・コーポレーション|COWBELLog – 日常生活における「コピー」会話。 :::
池澤氏は、こうした誇張が混じるのはしょうがないけれど、消費者は言葉を「軽く」しか受け取らない。問題なのは「言語生活全体がこの軽さに染まってしまったこと」と訴えます。
ちがう世界で生きる言葉をドッキングさせたりして、
より強い言葉をつくることは、
広告コピーとしては常套手段。だけど、そういう言葉こそ、
普通の毎日の生活で登場することで
普通の毎日の生活を豊かにできるのかも。
と思ってしまいました。
ひとつは言葉の現状を戒め、ひとつは言葉のちからを見つめ直すエントリで、表現は違うけれど、二つのエントリが見ていることばの正しいかたちは同じなのではないかと思った。ことばをあつかう仕事をする二人のエントリに、そうでない僕がそれを語るのがおこがましいのは承知の上で少し考えてみる。
自称世界の警察さんとかの言動を見ていると、言葉は行動と結びついて初めて意味を持つのだなと感じる。どんなに美しい言葉を発しても、それとちぐはぐな行動をしていると次からはその言葉自体が軽く感じる。
言葉(特にコピー)とは人で言えば顔のようなもので、良くも悪くも第一印象でしかないのではないかと思う。その顔(コピー)をきっかけに、実際にその人(物やサービス)とふれてみて、その通りのこともあれば、いい意味でのギャップを感じることもあるし、逆のこともある。スーツを来た野球選手にどこか違和感を感じるように、野球選手にはやはりユニフォームが似合う。
その人(物やサービス)以上の言葉を発すれば出会ったときに幻滅されるし、過小評価しすぎても気づいてもらえない。もとい、これまでと違う表情を見せることで新たな魅力に気づくこともある。言葉はその人と相手をつなぐメッセンジャーであって、その人以上に魅力的な言葉など存在しないのではないかと思う。
んー。読み返すとなんだか言葉の力の限界を強調しているような内容になってしまいましたが、そういう意図ではありませんのであしからず。思っていることを伝えるのは難しい。
