小浜市とオバマ氏の件
2008/11/12(Wed) Society
今後も小浜市はオバマ大統領を応援するとともにオバマ大統領の故郷、ホノルルやシカゴとも姉妹都市協定を結ぶ計画もある。また、多種多様なオバマ大統領の関連クッズを販売しており、小浜市の地域おこしにつながっている。
オバマ本人は麻生太郎首相との電話会談で「(小浜市のことは)よく承知している。小浜市に行ってみたい」と述べている。
松崎市長は「オバマ氏に特別名誉市民になっていただくことも検討したい」と話し一層の友好関係構築への期待を表明。
個人的には小浜市を今すぐ独立させて福井県から外して同じ福井県民ととらえられないようにしたいくらいなのだけれど、この勢いを増長させて奇跡的にオバマ氏を小浜市に来訪させ、その瞬間に「オバマ候補を勝手に応援する会」の全員が突如豹変して、事前に準備していた小浜市の拉致被害者地村さんと麻生総理の前にオバマ氏を引きずり出し、日本の拉致問題に対する協力と具体的な施策をまとめさせたりしたら福井県を小浜県にしてもいいくらいだと思うけれど、悲しいぐらい彼らはそんなことを考えてないんだろうな。
まあ少し真面目に書くと、勝手会が応援するのはよしとしても、それに行政府の市長がのっかるのはさすがにマズイと思う。判断力が全くないとしか思えない。地域興しになったとしても、その代わりとても大切なものを失ってしまう。

地方の市政はミクロ視点になりがちですよね。
とはいえ、確かに地域興しのダシに米国大統領を担ぎ出すのはちょっと軽率かと。
もし小浜市が大統領の思想や政策に共感していて、同じ方向へ向かっています・・・という話であれば、
まだ理解も出来るんですが、単に名前が同じだけってのは、ちょっと理由としてバカバカしいなと。
小浜市がオバマ氏の当選に喜んでいるのも、「オバマがきっと世界を良くしてくれるだろうという期待」に
喜んでいるのではなくて、単に「祭りがしたいだけ」なんだよな。
もし自分が大統領だったら、そんなピントはずれに騒いでる人達に協力したいなんて思わないもん。
トルコのバトマン市が「バットマン」の制作陣を名称の無断利用だと訴えてる事件があるけど、レベルは一緒ですね。
> トルコのバトマン市が「バットマン」の制作陣を名称の無断利用だと訴えてる事件があるけど、レベルは一緒ですね。
福井県民はそういう人ばかりではありませんのでご承知下さいませw。
小浜市の町おこしは、熱意と下品さから笑い話となっていますが、考えようによってはそれだけ地方の経済状態はジリ貧になっているということでしょう。確かに都市部だけがここ数年の繁栄を謳歌していた感があります。
ここで思い知るべき教訓は、都市部と地方の両方で互いの境遇を慮るという想像力を持つべきということです。
自民党による地方の保護政策の下で、今まで都市部は人口に応じた十分な整備をできずにいました。道路は狭く、開かずの踏み切りもあり、過酷な満員電車が常でした。しかし、ここ数年はずいぶん改善されたように思います。地方の人は、都市部だけ優遇されて金を使っているというでしょう。ですが、住んでいる人間にしてみれば、神経をすり減らす苦痛が日常生活に潜んでいる状態なので、すぐに解消されるべきだったのが放置されていたのです。
地方もまたバスや郵便局がなくなり、シャッター通りが多くなっています。都市部の人は、市場原理に従っているだけだと言うでしょう。ですが、住んでいる人間にしてみれば、銀行業も兼ねていた郵便局がなくなり、預金を下ろすのに一時間近くかけて繁華街にでるなんて到底できません。バス路線も縮小され、鉄道も廃線されてばかりです。
しかし、都市部と地方の両方の人が忘れているのが
北朝鮮による拉致被害者の人達です。彼らの苦痛は
想像を絶するもので、日本国が国民を守れないことを
皮肉にも実証してしまった恐ろしい国家犯罪です。
日本が国民を守る力や意思を取り戻す必要性を
日本人は感じなければならないはずです。
第二次大戦前の日本であれば、戦争を起こしていた
かもしれない事実にあまりにも無関心過ぎると思うのです。
僕も福井という全国都道府県知名最下位の県と東京に住んだことがあるので、双方の暮らしにくさみたいなものはなんとなくわかっているつもりです。
兵庫の知事が東京が壊滅すればチャンスだと言って謝罪した件は、チャンスという言葉はさすがに使い方を誤ったと思いますが、その元になっている分散とバックアップという考え方はとても理解できます。
アメリカが倒れかかっているのは世界のパワーバランスが分散するというメリットがあるのではと感じていますが、逆に混沌とした世界になるのではないかという不安も同時にあります。
この都会と地方・世界と日本の問題と拉致の問題に共通するのが「無関心」だというのは僕も同意で、おそらくその原因は社会システムが複雑化する課程で一人ひとりの目に見える範囲が狭まったためだと考えています。吉野家で牛丼が食べれるのはだれかが屠殺しているからだとはなかなか気づきにくい世の中です。
分散化・複雑化する課程でパワーが一極に集中し、その課程にいる人たちは見える範囲が狭まり無関心になっていく。この課程は不可逆だと思います。そんな状況の中極左的になる人たちの心境も、逆に極右的になる人たちの心境も分かるような気がしますが、結局それぞれの人たちも自分の思想に傾倒することで結果的に他者に対して無関心であるわけで、どちらも変わらない気がします。
その解決策は分からないし、僕が分かったところで社会が変わるともとうてい思えないですが、せめて無関心になるのではなく、考え続けていきたいと思っています。