子猫が眠る瞬間
かわいすぎるー。
僕の会社では、そろそろ新人が配属される時期です。ただ、僕は「新人」というものに対してあまりいい印象を抱いていなくて、それは、自分自身がそれを経験できなかったことから発生するコンプレックスや、彼らがその言葉から発するある種の甘えのようなものを感じる事への嫌悪であったりしますが、同時に自分自身を戒めさせてくれるありがたい存在でもあったりします。そこら辺を弾さんがドンピシャと書いてくれました。
「新人」はあなたの都合であって客の都合ではない
たとえば「新人」の医者があなたの主治医になったとします。もし担当者が誤診したら、あなたは「新人だから」ということでその医者を許しますか?
どのような職業でもそうですが、職業には「この料金であればここまではきちんとやる」という相場があります。明文化された場合もありますしそうでない場合もありますが、いずれにせよ相場があるのは事実です。「新人」であることは、その相場の基準を満たさないことを正当化するものでは全くありません。
嫌悪の部分はまさにこれ、そんなの客は関係ない。とはいえ…
そうやって書くと、なんだか憂鬱になりそうですが、「新人」のほとんどは、技量に劣り職務な不慣れな分、人一倍気を配って仕事するものです。その結果「新人」でない人と同等か、むしろ品質に勝る仕事をすることも少なくありません。
むしろ怖いのは、「新人であったこと」を忘れた頃です。職場の雰囲気と仕事の手順に一通り慣れると、自分の仕事が退屈に思える瞬間が時々表れます。「これって本当に私のやりたいことだったっけ?」、「こんな仕事をやるためにこの会社を選んだんだっけ?」。実はこれが五月病の正体です。たいていの方は、1月もすればその職場になじみます。だから五月病なのですね。
というのもまさにしかり。事実毎年新人と仕事をすると自分自身が新しい気持ちになったり、振り返ることが出来たり、定期的に気持ちをリフレッシュさせてくれます。ましてや、7・8年仕事してきてやっと同じ年代と仕事が出来るようになって、それはそれはうれしく、楽しい。というわけで、今年もそういう人たちと出会えるといいな。
売り方から個人情報漏洩時の対応まで、いろいろ勉強になる。
ジャパネットたかた 社長 高田 明 – ビジネススタイル – nikkei BPnet
「いつも両親は忙しくて、近くにいませんでした。でも、社員の皆さんが周りにいてくれて、少しも寂しくなかった」
そして彼女は、こう言葉を継いだ。
「でも、父と母の姿をずっと見てきて、大人になったらこんな夫婦になりたいと思ってきました」
ITmedia News:「恋愛とビジネスは同じ」――ジャパネット高田社長 (1/2)
「『カメラを10万台売りました』というだけなら、できる会社は他にあるんです。でも、ただ物を売るだけなら、こんなにつまらない人生はない」
氏の動静をひさしぶりに発見。やはりbAは退社されたようだ。
entertainments meister -vol.3 福井 信蔵 インタビュー
文化庁メディア芸術プラザ
でも表面的なことではなくて、重要なのは思想。
今なら、数年前の彼が言っていたことが、少しはわかるようになった気がする。
文字校のため調べ物をしていたら、「片手落ち」と「ブラインドタッチ」が差別用語ではないことを知る。差別用語ではないが、「一般的に差別用語と思われているため使わない方が無難」という位置づけらしい。差別用語そのものの定義から意味合いからしてあやふやだけど、印象に残ったのでメモ。
振り返ってみると、一番楽しかった時期は、一番大変で、一番苦しかった時期とぴたりと符合する。そして、それを経験する前の自分とは全く違った自分になっていることに気づく。失ったものもあるけれど、得たものも少しあって、それは、失ったものとは比べものにならないくらい価値のあるものだと、思う。
詳しい話はここでは伏せるが、あのときライブドアが置かれていた様々な状況と事情により、当時の役員、つまり羽田さんと私は退任するというのがもっともライブドアにとって良い選択肢だったことは、これは間違いないことだった。
しかしながら、自分の中ではあの時、なんとかライブドアの再建の力になることは出来ないか、社員でも委託でもなんでもいいから、何か出来ないか、とずっと考え続けて、答えが出ないでいた。
お二人には、二度だけ会ったことがある。一度目は事件後の臨時株主総会で、遠目から眺めただけ。二度目は仕事の相談で少しだけ言葉を交わした。二人の頭の回転は、明らかに異常に早かった。ライブドアや堀江被告という存在自身に過度な期待があったわけではなく、「こんな会社が存在できる『社会』」が「自分が居心地がいい『社会』」だと感じていたので、存在していて欲しかったなという思いは今も少しだけ。明日、堀江被告の判決が下る。
1988年11月25日、当時17歳の女子高生を少年らが拉致監禁し、40日間にも及ぶ筆舌に尽くしがたい暴行の末、翌1989年1月5日に死亡させ、遺体をドラム缶に入れ、コンクリート詰めにし遺棄する。その後別の事件で逮捕された少年の自供により、1989年3月29日に事件発覚。1991年7月12 日、主犯格の少年Aに懲役20年、少年B、C、Dにそれぞれ、懲役5年以上10年以下、5年以上9年以下、5年以上7年以下という判決が言い渡された。
1999年に出所していたサブリーダー格だった少年Bが2004年5月19日、知人の男性を監禁し暴行を加えたとして、逮捕監禁致傷の容疑で6月4日に逮捕され、2005年3月1日懲役4年の判決を受けた。
倫理観とはなんなんですかね。綺麗なもの、賑やかなもの、形で表されるものがよしとされ、暗いもの、目立たないもの、言葉にならないものが嫌み嫌われる時代。このエントリもどちらかというと後者に属すると思うのだけど、それを避けていると積もり積もってしまうだけだと思うのだけど。
その人が持つ、その人も意識していないレベルでの価値観。いつの頃からか汚れてしまった宗教という考え方。家に仏壇があったりたまにお墓参りに行ったりする中で自然と生まれてくる、死者を弔うという考え方であったり、他利行という考え方であったり。普段からそうやって言葉にしないにしても、宗教は知らず知らずのうちにいい意味でその人に影響を与える事が出来るものであると思うし、その意味で宗教は人間に必要だと思う(必須ではないが、宗教はそれを簡単に得られる材料だという意味)。
どんなことも、最終的にはその人個人の心の中で判断されることであり、その判断材料となるのはこういったことじゃないかと僕は思う。そして、つい自分以外の誰かが動かしているように考えてしまうこの社会は、そういう一人一人の細かいそういった判断が積み重なったものであると思うから、僕はその判断の軸をどうしてもブラしたくない。ああ、眠い。