Archive for the ‘Diary’ Category

Untitled

2008/12/26(Fri) Diary

僕は、彼女を肯定する。それは甘やかしているのではなく、ましてや無関心だからでもなく、人一倍いろんな事に向き合って来た彼女が選ぶ道は、たぶん彼女にとって正しい事だと思うから。たぶんというのは、僕は彼女ではなく他者だから、彼女に限らず他人のことは僕には分からないから。

努力したからって、大変だからって、それに相応しいだけの幸せが帰ってくるわけではないと思ってる。この世界は平等なんていう綺麗事では済ませないものだから、努力しても報われない人もいるし、努力しないのに報われる人もいる、それが現実。

でもやっぱりどこかで、人一倍きちんと向き合っているのだから、人一倍の幸せを手にして欲しいと思ってしまう。誰かを傷つけても、誰かを不幸にしたっていい、世間の常識や倫理観と違っても全然かまわない。本当に自分の気持ちのままに生きていって欲しいと思う。その資格は彼女には十分すぎるほどあると思う。

誰かを批判しているわけではないし、僕の思う形になって欲しいわけでもない。正直言ってしまうと、相手のことはどうでもいい。彼女は認めないけれど、彼女は過去と十分向き合ったと僕は思うから、過去を全て解き放って生きていって欲しいと思う。全てが報われるわけではない世の中だから、解き放ったからといって必ず幸せになれる保証はないけれど、その方が、彼女が笑顔でいる時間を少しでも長くできるのではないかと思う。そしてそれは、彼女が僕にしてくれたことだと、今気づいた。だから、僕は、彼女を肯定する。

螺旋の道

2008/12/09(Tue) Diary

「世代」というくくりで物事を考えることはあまり好きではなかったんですが、最近ひしひしとそういうものを感じる。辞書では約30年を1世代と数えると記されていたけれど、現実は10年程度で社会をどうとらえるか、社会の中の自分をどうとらえるか、という平たくいえば価値観が変わっているように思う。

以前からぼやっと感じていたことが年金に関する議論を眺めていた時に明確になった。例えば今、5歳の子供と、25歳の僕と、45歳の社会人という3人がいた時に、この3人は同じ2008年という時代を生きているけれども、違う時代を生きているのだという事に気づいた。それは人生をスタートしてからの時間の違いであり、積み上げてきたものの違いであり、残りの時間の違い。

5歳の子供は社会というものをまだ認識していないかもしれない。25歳の僕はこれから自分と社会が共に楽しんで生きていける折り合いがどこにあるのかを探しているのかもしれない。45歳の社会人は自分としての芯が定まり子供も自立してさあどう自分の終演に向かっていこうかと考えているのかもしれない。

その3人の前に同じ問題と選択肢が提示されたときに3人が選ぶ答えは、思想信条や環境が同じであっても、同時代性を保持していたとしても、自ずと異なる事が自然なのではないかと思う。そしてそれはどれも正しいし、どれも間違っていないように思う。何か意見の相違があったときに、それを闇雲に時代や世代のせいにはしたくないけれども、その人達が見ているゴールまでの距離が違う以上、必然なのではないかとも思う。

数世代単位でみた人間の長期的変化が螺旋的変化であるとするならば、同じ轍を踏んでいるように見えることでも世代という要素によって微妙に異なるものであろう。おそらく人間は基本的には1世代単位でリセットされていて、どんなに歴史や技術の積み重ねがあったとしても同じ事を繰り返さないと理解しないのではないか。

螺旋の道は、4〜5世代程度で同じ位置に戻るというのが個人的な感触。達観でも諦観でもなくその流れであることを見極めて、仮に自分より後に生きる人たちを見て「同じ轍を踏もうとしている」と感じても「再度挑戦している」と捉えられるようになりたいし、何か言葉を求められたらその観点での言葉を返したい。それはもうほとんど、希望というような境地であるのだけれど。

どうしたら私たち二人の望みをかなえられるだろう?

2008/12/04(Thu) Diary

useless

「相手の気持ちを考える」という行為は、一種の想像力です。その時に、「あの人と、私の望みが違ったらどうしよう…」「どちらかをあきらめなければいけない…」「私が無理をしなきゃいけないのかな…」と葛藤して考えるか、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えるのかで、人生が大きく変わります。

葛藤を感じたとき、我慢しないために自分を押し通すのでもなく、罪悪感を感じたくないがために他人に譲るのでもなく、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えてみてください。今日から両方が満足する方法を考えるクセをつけてみてください。

ここ最近ずっと考えているんですが、その中で達した結論を表すとこういう事だと思う。いろいろな枠組みを外して、僕とあなたという個人間の繋がりだけに絞ってものごとをとらえ直してみたときに、ふとお互いがハッピーになる現実的な可能性が一番高いと思える答えが浮かんできた。

きっと相手はそれを望まないだろうし、嫌われるのかもしれないし、可能性が高いと考えているだけで実際どうなるかはやってみないと分からないんだけれど、小さな脳みそと狭くなりがちな視野を精一杯広げて考えてそう思った。

朝起きたら雪だった。

2008/11/20(Thu) Diary

雪

さむいさむい。

自分メディア

2008/11/16(Sun) Diary

という、どこかで聞いたことがあるようなものが、僕は今一番欲しいです。水樹奈々のDVDも、新しいMacBook Airも、本もいろいろ欲しいのですが、それはその「自分メディア」があってこそ欲しい、と言えるような気がします。自分メディアというのは、新聞が発するような社会性のあるニュースではなく、友達の誰がどこに行ったとか、何を考えているとか、何を買ったとか、そういう自分を中心としたごく限られた人の発する情報だけが集まったメディアです。メディアではないのかもしれないですが。

ちょっと話は抽象的になりますが、「自分」という単語やその存在というのは、「他者」があって初めて存在するわけで、もし地球上に人間が一人しか存在しなかったら「自分」という概念は存在しないわけです。あたりまえだけど。つまり、自分を構成している要素として「他者」というのは結構な割合を占めているわけで、その上での自分らしさとか、独自性とか、そういう話になるわけです。

で、そういう他者を通じて社会性とか、公共性とか、大げさに言うと政治とかそういう者に気づいていくと思うわけで。今のネットの時代、個人が発信している情報は結構あるんですが、全てが細かく分散してしまっていて、それの網羅性とか一覧性は全くなかったりする。

そこで冒頭の自分メディアという言葉に戻るんですが、そういう膨大に個人が発信している情報の中から、自分とその発信者個人という繋がりでのみ情報をフィルタし、一覧性を持たせることが出来るものが欲しいなぁと思っているのです。技術的には可能なはずなので。一番近いのはFaceBookなのですが、ソーシャル性はいらないと思う。すべての他者との間に双方向の理解があるわけではないので。

Ritmo Latino D3EB21GS

2008/11/05(Wed) Diary

Ritmo Latino D3EB21GS

新しい時計も買った。駅前にある、前からちょっと気になっていた時計屋さんに入って眺めていたら、どれも数十万円クラス。時計には十万円以内しか払う気はなく、数十万円使うなら新しいパソコン買う!という感じで考えているので、安めのを探してたらこれを見つけた。

今持っているのがゴツめの黒い時計が多いので、スーツには普通に馴染むんだけどカジュアルな服の時はちょっと堅いので、カジュアルなのが1本欲しかった。そこに見つけた、ベルトも細く、色も今持っていないライトグリーンのこの時計。

詳しく知らずに買ったんだけど、会社の人に聞いたら「Ritmo Latino」というイタリアのものらしい。以下自分メモ的にまとめると、1990年にイタリア・ミラノで生まれたブランドで、イタリアでアパレル関係に従事していたファッションデザイナー、故HACO瀧川氏のデザインらしい。

時計というよりもひとつのアクセサリーとして存在感の強いスタイルを特徴する数々の製品は、いずれもユニセックスで使えるようにデザインされているのも特徴らしい(以上棒読み)。店員に騙されたのでもなく、在庫がだぶついているのを売られたわけでもなく、あくまでも自分が良いと思って選んだのである。

Kazuo Kawasaki MP907-37

2008/11/05(Wed) Diary

Kazuo Kawasaki MP907-37

ちょっと前にメガネを変えた。川崎和男のメガネは一度使ってみたかったんだけど、なにぶん取扱店が少ないので買う機会がなかった。今まで使っていたものがちょっと歪んできていたので、ペイリンがかけてるとか、爆問学問に川崎和男が出ていたのを見て、今回は「Kazuo Kawasaki」にしてみようと決めた。

僕はメガネを変えるとレンズの度数が変わらなくても激しく肩が凝ったりするので、一度選んだものは1年くらいはずっと掛け続ける。なのでかけやすさがまず重要。でも、一度かけてしまうと自分からは見えず、外見の印象の一部になるので外見のデザインは「どう見られるか」を基準に選ぶ。

「Kazuo Kawasaki」にしたかった理由のひとつが普通のメガネとはちょっと違う構造で、レンズをフレームの中に押し込んで固定するのではなく、ひとつのポイントで固定するだけで完全に浮いた感じになる構造。フレームのゆがみにレンズが影響を受けないので、見やすいらしい。かけてみて実感するほどの差はないけれど、こういうメカニカルな構造は個人的に惹かれる。

外見のデザインは、今まで縁の太いフレームが多かったので上縁だけのものにしてみた。色も、今まで茶色とかグレーが多かったので、紫というかボルドーというか、そういう色にしてみた。最初はフレームが無くて不安定な感じがしたけど、慣れると軽くて快適です。

人を殺めようとする人に刃物を売る事は正しい事か?

2008/11/02(Sun) Diary

あなたが包丁とかナイフを売るお店の店長だとして。客が「これから人を殺しに行くので、切れ味のいい包丁が欲しいのです。」といわれた時に、どう答えるのが正解なのか。(例えが極端すぎるのはご容赦下さい。)

まあ普通に考えれば、「お前に売る刃物はうちにはない!」と怒鳴り散らして、親切心があればその客を説得し、場合によっては警察に通報する事が正しい、とされるのでしょう。一般的に。

ところが、こんな事を言う人がいたとする。「売ってあげなよ。『お客がそれを求めているのだから』、それに答えないと。」と。また、その刃物をひとつ売らないと、そのお店が倒産してしまうとしたら。そして、最初から「殺めたいから」なんていう人は少ないわけで、売った後に「実は…」、っていう事も多い。

いや、自分でも、売らない事が正しい事だとは分かってます。でも、それをするためには自分たちにもそれ相応の前提が必要になるのではないか、と思ったのです。それと、刃物の使い方を分かっていない人にこそ、刃物の使い方を説明する意味があるのではないかと希望を持っていて、その意味を説明し理解させる事ができなかったとしたら、プロではないのではないか、と思ったのですが。

全てを疑う事

2008/11/02(Sun) Diary

数年ぶりにウェブサイト制作の仕事に戻ってきてまずしたことは、全てを疑う事でした。別に、ひねくれた訳ではありません。ちょうどタイミングよくあるクライアントからのサイトリニューアルの案件を担当する事になり、そのサイトを作る上で、必然的にそこを考える必要が出てきたのです。

「なぜサイトをリニューアルする必要があるのか」「なぜ現状のサイトではだめなのか」「そもそもそのクライアントって何なのか」「そのクライアントは社会に必要なのか」「そのクライアントは別のものでは代替えが効かないのか」「なぜ現状のようなしくみのなかでそのクライアントが存在しているのか」「そのクライアントってそもそもいらないんじゃないか」と。

それは、なにもクライアントを否定しているのではなく、上記の質問を繰り返していると、不思議とそのクライアントの存在価値、存在意義が浮き彫りになってきます。そこを見ないでおいたまま、サイトのリニューアルなんて出来ない、と思ったのです。

同じ会社の人からは、そこまで考えなくてもいいんじゃないかと言われたのですが、逆にここを考えずに出来る人がいたらすごいと思います。大げさかもしれないけれど、僕はウェブサイトというものを作る事でそのクライアントを変え、そのクライアントのユーザをも変える事が出来ると信じているからです。自分が出来る事と、社会に必要とされる事、そのクロスする部分が、僕にとってのネットであるから。

書評バックデート

2008/11/02(Sun) Diary

ブログを書かない間も、本は読んでいました。

2008-09-14 (Sun)
さまよう刀

2008-09-28 (Sun)
ゲームデザイナー 小島秀夫の視点

2008-10-05 (Sun)
自分をグーグル化する方法

2008-10-16 (Thu)
悩む力

2008-10-18 (Sat)
初恋温泉

2008-10-26 (Sun)
聖女の救済