Archive for the ‘*Pickup’ Category

優先順位と自らが望むものの変化

2007/07/11(Wed) *Pickup, Diary

少しは歳をとったからだろうか、いろいろあったからだろうか。自分の中での物事の優先順位がガラッと変わったのを感じる。もともとあまり自己主張をする方ではないと思うのですが(局所的にわがままぶりを発揮することもありますが)、最近さらに薄まってきた。自分一人だけ好きにやってまわりがぼろぼろになる状況と、まわりも含めてきちんとやっていける状況。そのどちらを選ぶのか。前者を選ばない事への後悔は、不思議とないのだ。後悔ではなく、もう少し先だろうと思っていた事へのとまどいは正直あるが。まだ焦る必要はないので、もう少し考える。

LIAR GAME 最終回

2007/06/29(Fri) *Pickup, Movie

LIAR GAME

LIAR GAME

1週間遅れで最終回を見た。騙しあいすぎて最後の方はよく分からなくなってくるけど、ゲーム最後の密輸の締め方は綺麗だった。ヨコヤは相手を信じれば自らの過去を否定され、否定しても自らが崩壊する。続編も十分ありそうな終わり方。

相手を信じて生きるには、相手にも自分を信じてもらう必要があって、それを理由にして自らも人を信じる事をしないこの世界。このドラマで描かれている世界はたしかに素敵な世界で、でもそれは現実とはほど遠くて。そのギャップが大きい故に、このストーリーを面白く感じた。

ドラマの最後に一瞬映し出された「このドラマはフィクションです」という一言が、LIAR GAME(騙しあいのゲーム)を人を信じることで攻略したこのドラマの登場人物達とそれに一瞬でも心動かされた視聴者に対して、あまりにも皮肉だ。

LIAR GAME ジャケット
ライアーゲーム DVD BOX
出演: 戸田恵梨香.松田翔太

赤朽葉家の伝説

2007/06/28(Thu) *Pickup, Book

赤朽葉家の伝説 表紙
赤朽葉家の伝説
桜庭 一樹 (著)

-せかいは、そう、すこしでも美しくなければ。-

前回読んだ「少女七竈と七人の可愛そうな大人」と同じ桜庭一樹の本。この作家、久しぶりにアタリかもしれない。この人の書く文章はとても美しい。美しい言葉から、美しい情景が描かれ、美しい物語になっていく。中国山脈のおくに隠れ住むサンカの娘が輿入れした、タタラで財を成した製鉄一族、赤朽葉家の盛衰を描いたこの本は、「白夜行」ばりの激動を白夜行以上の美しさで描く。

千里眼の目を持ち、山の子供から地方豪族長男の嫁になった赤朽葉万葉。その千里眼が写すものは幸福な未来ではなくほとんどが希望を失ってしまう未来ばかりで、その宿命を予め知りながらも生きていく万葉と、翻弄されつつも繁栄を極めていく赤朽葉家が生きた高度経済成長という、日本最後の神話の時代。

豊かな時代に万葉の娘として生まれた、毛毬。その豊かさゆえか信じる所と現実を見失った青春の中で訪れる、受験戦争からのプレッシャーから逃れるために管理売春に身を染めていった親友・蝶子の死。自ら作り上げたバブルによって自らが殺められる、巨と虚の時代。

ある意味では、万葉によってこの世に生を受けることを宿命付けられていた毛毬の娘、瞳子。高度経済成長の時代に自分達で時代を作っていった万葉。バブル崩壊の時代に過労死で倒れる毛毬。そんな偉大な祖母と母の存在に怯え、何者にもなれず何も語るものをもたない、平成の瞳子の時代。

万葉、毛毬、瞳子と3代にわたる赤朽葉家の女の物語の中で、昭和の終わりに生まれた僕が一番惹かれるのは戦後から始まる万葉の時代と、万葉の生き方。家族に捨てられた文字も読めない万葉は、激しくもしっかりと生きていった。その万葉を見て僕は瞳子と同じように、僕たちがその時代の人としてしか生きられないとするならば、僕らはどうやって生きていけばいいのかと思う。

電車に飛び込んで自害した、万葉の親友黒菱みどりの兄と、万葉の生みの親がいたかもしれない山中の箱が整然と並ぶくだりの描写は、華やかな時代の儚い、美しさと醜さの間にある、生と死の間に流れる長い時間を一瞬で描ききっていて、この本で唯一泪が出た。

万葉のまわりの人々が次々と亡くなっていく物語が描かれるけれど、それは万葉が生きていく様を描いているように思えた。いつかぜひ、何も語る物がないといった瞳子自身の、万葉や毛毬の話ではない瞳子自信の物語を聞いてみたい。

僕はパパを殺すことに決めた

2007/06/23(Sat) *Pickup, Book

僕はパパを殺すことに決めた 表紙
僕はパパを殺すことに決めた
奈良エリート少年自宅放火事件の真実
草薙 厚子 (著)

-本書を少年が手にすることがあるかどうか、私には分からない。
  ただ、この言葉を最後に記しておきたいと思う。-

2006年6月20日、奈良県で発生した16才の少年が父親への恨みなどから、父親が不在と分かっていながら家に放火をし、継母とその次男、長女が遺体となって発見された事件。なぜ少年は父親が不在と分かっていながら火を放ったのか、なぜ父親を殺そうとしたのかを、3,000枚の供述調書をもとに分析している。著者と出版社は、奈良家庭裁判所から供述調書の不正引用で抗議を受けている。

供述調書の内容はとても興味深い。少年、父、実母、継母たちがある一つの出来事について語る時、それぞれが記憶している描写や、関係性や、その原因と考えていることが全く異なっている。一つの出来事が、視点が変わればこれほどまでに違うのかと今更ながら驚かされる。

はじめは小さな歯車のズレだったのに、それがどんどん、どんどんと広まっていって、だんだんと取り返しの付かないゆがみを生んでいく様子が克明に書かれている。そしてその登場人物の多くが、自分は間違っていたといいながらも、その語る言葉からは、本人が本当のところでその原因を理解できていないと思われる記述が多いことに軽い絶望も覚える。

被害者の遺族でありながら、同時に加害者の親にもなったこの残された父親と、何年かしてまたこの世界に戻ってくる少年との暮らしを想像すると、また同じ事が起きるような気がしてならない。何が一番悪いのかは、僕には分からない。

現代語訳 般若心経

2007/06/10(Sun) *Pickup, Book

現代語訳 般若心経 表紙
現代語訳 般若心経
玄侑 宗久 (著)

-「生まれた」という認識も「滅した」という認識も
  ありのままの実相ではなく、じつは脳内に現象した大雑把な「概念」に過ぎません。

 解けないほどに絡み合った関係性を、
  とりあえず無視してザックリ切った認識と見るしかないのです。-

有史以来どんな文明にも必ず宗教があるのは、人間が死を知ってしまった唯一の生き物だからと誰かが言っていた。自分の死は怖く、他人の死は悲しく空しい。でも、誰にでも必ず訪れる死と向き合うことが、生きることだと思うようになった。これまで陰気くさいと思っていた死や宗教というものが、とても生きるという事に近いものだと思うようになった。

何が善で何が悪か。何が美で何が醜いのか。何が幸せで何が不幸せか。何が生で何が死か。著者はそれら「私」自らが作り出した観念によって自ら苦しみを生み出している人間に、その根源にある「いのちの全体性」を見よという般若心経の心を説く。

理解するのではなく、感じよと説く。理解するのではなく、体験せよと説く。うさんくさい、極めてうさんくさい。でもこんな状況の中では、読んでいてだんだんと気持ちが少し楽になるのも確か。それさえも「私」が作り出した幻想なのか、「いのちの全体性」に近づいているのかはよく分からない。

これは僕の中の「私」の概念だけど、死は生きる事の終わりではなく、死は生きることの一部であると思う。死ぬことまでを含めて生きることだと思う。故に、死を感じる事が生きる活力になる、という言い方は若干誤解を招くが、生きる糧になるといえば少しは伝わるだろうか。

菊の花の中で

2007/06/09(Sat) *Pickup, Diary

葬儀(Wikipediaより)

葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理するか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。

あまり人前で書くような話ではないことは分かってるのですが、いろいろなことを書いてきたこのブログでこのことだけ書かないのもなんか変な話だし、自分の中でもやもやと思っていることを一回整理もしたいので、少しだけ書かせてください。ものを書くといろいろと自分の中で受けとめることが出来て、そのうちこのエントリと同じようにだんだん心の下の方にいって居場所を見つけてくれるので、ちょうどいいのです。

月曜日の朝に母方の祖父がなくなったと母から聞いたときは、詳しいことが分かっていなかったこともあって、そうですか、という感じだった。福井に帰って来いというので、とりあえず会社に行って、帰らせて欲しいという話をして、目の前の仕事を片付けていたのですが、正直上の空で、決まったことを決まったようにただただ処理して、新幹線に乗って一ヶ月前に帰ったばかりの福井に帰った。なぜか、一日中ずっともの凄く胃が痛かった。福井駅で妹と合流して、タクシーの中で少しだけ話して、家に帰って、よく覚えていないけど気づいたら寝ていた。

明くる日の昼に式場に着いて、母と母方の叔母に会う。一ヶ月前の連休に帰った時に数年ぶりに会った叔母との次の再会が、こんな短い間でこんな理由で会うとは、世の中とは皮肉なものだなと思った。式場の二階にいったら祭壇があって、祖父の写真が飾られていた。祭壇には、僕の名前もあった。祖父が僕の両親の結婚式に出たときの写真らしく、僕が始めてみる顔だった。自分の記憶があるうちで、会社関係の人の葬儀に出たことはあるものの、親族の葬儀は初めてだったので、祭壇に飾られている祖父の写真に全く現実感はなく、ただ、これから本当に葬式をやるんだなと思った。

まだ誰も来ていないので、式場の近所をぶらついて、コンビニを探しても全然なくて、やっと見つけてコーヒーを買って帰っていたら、祖父が入った棺をのせた車が着いたところだった。久しぶりに会う親戚と少しだけ挨拶をして、喪主の叔父に祖父の顔を見せて欲しいとお願いして、さっき行った祭壇に向かう。途中で「あれゆうちゃんじゃない?」とこっちは全く覚えていない親戚(今回ほとんどそうだったけど)と挨拶を少しして、祖父の孫の祐輔ですと挨拶したらあらーとかいわれた。

祭壇の横の花をどけて、棺の横に立つ。叔父が棺にかかっている布を少しだけよけて、棺の蓋を開けると祖父の顔があった。菊の花に囲まれた祭壇の小さな棺の中で見た祖父の顔は、僕が中学校まで毎年夏休みと正月に行ったときの祖父が、茶の間の床で寝ているときの顔と何も違わなかった。ただ、少しだけ色が白かった。じっと見ていられなかったので、手を合わせて目を瞑った。それでも、死んだとは思えなかった。ただ寝ているだけのようで。

祭壇に一番近い最前列の席に、祖父の孫が僕を含めて八人座った。今回僕が初めて会う従兄弟もいて、その中で僕は一番年上で、みんな小さい頃に遊んだ顔とは全然違って(何も変わってないのもいたけど)、そうかじいちゃんの孫は八人もいるのかと思った。そして、いつかこの八人の世代だけになる時も来るのかなと思った。最後尾の入り口で喪主の叔父とその奥さんの叔母と祖母と母と叔母が来る人に挨拶をしている。そこで初めて泣く声を聞いた。焼香をしに来る人に頭を下げつつ、通夜が始まるのを待った。

通夜の間中唱えられるお経を聞いていると、不思議と無の心境になる。なにも、なーんにも考えなくしてくれる力がお経にはあるのではと思う。一時間近くの通夜の終わり、喪主である叔父が、これまで聞いたことのない声で挨拶をするのを聞いて、ああ、祖父は死んだのだなと、初めて思った。

用意された晩飯もあまり食べる気がしなかったので、少しだけ箸をつけて夜の、真っ暗な式場のまわりをすこしぶらぶらした。涼しかった。親族の控え室に帰ると、僕と妹はいったん家に帰ることになっていたのだけど、わがままを言って母や叔父たちと一晩残らせてもらうことにした。帰ってもどうしていいのか分からなかったし、寂しかったのかもしれないし、結局よく分からなかったけど、今帰ったらずっと後悔してしまいそうで。

結局朝まで起きていた。祖父の姉が一晩中お経を唱えていた。父と数年ぶりに少し話をした。いろんな人とも話をした。祖父のこととか、明日のこととか、東京での事とか、いろいろ。隣では祖父が眠っている。叔父の娘だから僕からすると従姉妹と、四時くらいまで話をした。彼女もよく分からないと言っていて、同じ気持ちだった。それぞれの家で一番初めて生まれた子供同士感じていたことや、逆に長男と長女故の違いとか、なんかそんな話をしてた気がする。あと、学校のこととか、仕事のこととか、そんな事。

七時頃少しだけ横になったけど結局眠らないまま朝が来て、告別式が始まる。お焼香を三回して、再び叔父が挨拶し、出棺の時。みんなが棺のまわりに集まって、花を入れていく。みんなが泣き出し、僕も初めて涙が出た。僕も花を入れ、祖父の顔に少し触れた。触れた瞬間ものすごく冷たくて、また涙が出た。ただ、涙が出た。叔父と何人かと棺を持ち、車にのせる。棺はとてもとても重かった。

火葬をするため、実家に向かう。七、八年ぶりに見た実家の風景は、なんだかとても小さく見えた。夏休みに遊びに行って帰るときに見送ってくれた玄関を見たら、また少しだけ涙が出た。火葬場で、最後の手を合わせ、火が付く。母が火の見える所まで行くときに泣いてよろけたので、何の弾みか僕も母を支えて奥まで行って、祖父を燃やす火の音を聞いた。なんで最後にこんな熱い火で焼かれなければならないんだろうとか、そんな事を思った。火葬場を出て、この何日かで一番たくさんの涙が出た。しばらく近場で親戚中でご飯を食べて、骨上げ。棺を持ったときにはすごく重かったのに、ものすごく軽くなっていた。

全てが終わった後、実家のまわりを歩いた。隣の洋服屋や、小さな用水路や、夏休みにお祭りに行った神社や、田んぼや、魚を捕った川や、祖父の仕事場や、役場とか。ずっと聞こえるカエルの鳴き声や、空を飛ぶ鳥や、久しぶりに踏む土や、山のにおいがする涼しい空気とか。風景は何も変わっていなかったけど、小さな時にそこで遊んでいた自分はずいぶんと変わったものだなと思った。

通夜から24時間もたたずに、祖父はあっというまに骨になり、とても小さな箱に入ってしまったけれど、これでいいんだろうと思う。何もせず、ずっといてもいいと言われればずっといてしまうと叔父が言っていた。やることがたくさんあって、気づいたらあっという間に小さな骨壺に収まって、感慨にふける暇もないことが、残った者が生きていくための最善の策なんだろうと思う。

結局祖父ってどういうもので、死ぬってどういう事で、生きるってどういう事で、親戚とか親とか僕ら八人の孫たちってどういうものか、何にも分からなかった。ただ、言葉には出来ないけど、いろんなものを見たし、いろんな事を知ったし、いろんな事を学んだし、いろんな事が大切なんだと知った。まだあやふやなそれらのことは、今後必ず生きていく糧になると思うし、そういういろんな事を最後に教えてくれた祖父のことをとてもありがたいと思った。

白鷺(しらさぎ)

2007/05/21(Mon) *Pickup, Diary

白鷺(しらさぎ)」という、短い小説を書きました。

2月くらいに「小説を書いてみたい」と書いて以来ぽつぽつと書いていたのですが、全部で4万字くらいになりそうな物語の5,000文字くらいまで書いた所で、なにせ小説なんて書くのが初めてで、最後までもっていく道筋がみえなくなり、とりあえず短い話を書いてみることにしました。

「白鷺(しらさぎ)」は約2,600文字、A4にすると5枚くらいなのですが、何もないところから物語を紡ぎ、登場人物のそれぞれの気持ちを思い、何を描写し何を描写しないのかを考えながら書いていたら、もう書き終わったら脱力です。よければ読んでみてください。この後も短い話をいくつか書いていこうと思います。いやー、読むのと書くのは大違い。

幻夜

2007/05/13(Sun) *Pickup, Book

幻夜 表紙
幻夜
東野 圭吾 (著)

-何があっても美冬を守る。
  たとえ彼女との夜が幻であっても。-

※完全ネタバレ(というほどでもないかもしれないけど)なのでご注意を。

白夜行の続編が出ているとは知らなかった。約800ページ、読了に7時間。前作の桐原亮司が唐沢雪穂のパートナーであったのに対し、本作の水原雅也は完全に新海美冬の道具であった。美冬が雅也が叔父を殺害する現場を目撃したときはほんの小さなきっかけであったのかも知れないが、美冬が襲われているところを雅也に助けられたことで、美冬が雪穂であった時亮二に助けられた思い出が重なり、道具にする決め手になったのではないだろうか。

相変わらず読ませる。新海美冬は誰なのかという大きな謎は、だんだん具体的な謎となり、一つ一つまわりから核心に迫り、最後に大きな結末に淡々と進んでいく。途中までは白夜行と同じでちょっと退屈にも思えたが、途中から雅也が美冬は美冬ではないと気づいたあたりから物語は大きく動く。そして今回もまた淡々と粛々と、そして冷酷に生きていく美冬。

しかし、ふと考えれば、幻夜は雅也が大きく扱われているが、美冬に関わった人たちにはそれぞれの幻夜があったのだろうと思う。その点で、雪穂×亮二と、雪穂(美冬)×雅也含むその他とは大きく違う。雪穂と亮二はたしかに同じ白夜行を歩いていたのでどこかに救いのような正当性を感じられたけど、今回は美冬の鋭さと冷たさと、残酷さが光っていた。

だから僕は読み終わったとき、美冬が船の上から見ていたその景色のどこかに、亮二がいて欲しいと、その思いだけは持ち続けていて欲しいと切に思った。僕の中では、ランドセルを背負っていたときの雪穂が、まだ生きているから。

人は人のために生きてこそ人

2007/04/25(Wed) *Pickup, Clip

売り方から個人情報漏洩時の対応まで、いろいろ勉強になる。

ジャパネットたかた 社長 高田 明 – ビジネススタイル – nikkei BPnet

「いつも両親は忙しくて、近くにいませんでした。でも、社員の皆さんが周りにいてくれて、少しも寂しくなかった」

そして彼女は、こう言葉を継いだ。

「でも、父と母の姿をずっと見てきて、大人になったらこんな夫婦になりたいと思ってきました」

ITmedia News:「恋愛とビジネスは同じ」――ジャパネット高田社長 (1/2)

「『カメラを10万台売りました』というだけなら、できる会社は他にあるんです。でも、ただ物を売るだけなら、こんなにつまらない人生はない」

白い巨塔

2007/04/02(Mon) *Pickup, Book



里見先生のように死んでしまった患者の生命にこれほどまでの強い責任と愛情を感じて下さるりっぱな先生が、なぜもっとえらく、お幸せになれないのですやろか、里見先生のような方にこそ、私たち患者は信頼して自分の命をお預けすることができるのです…

全5巻2,131ページ。ドラマのサントラを流しながら読んでいたので、唐沢・財前と江口・里見が浮かんできた。亀山君子が証人出廷を決意し、柳原医師が真実を告白したという、ひとがひとのために真実を突き通したシーンが特に印象的だった。

医学という、半ば生命に抗う学問を信じる二人の医者がいて。その二人の飛び込んだ世界はどの世界にもあるようにその使命とはほど遠い現実があって。ひとりは地道に自分の信じた道を歩み、ひとりは目的達成を第一に考え手段を選ばず、その過程を経てたどり着いた目的地は当初とは全く違ったものになっていた。そこにあった志は間違っていないものであったと思うが、ざまざまな見えざる手によって動かされたその課程は「白夜行」のふたりに通じるものがあった。その時にも感じたことではあるが、一人一人の様々な入り交じった思惑によって、一人の患者が殺められたが、僕には、財前がけっして悪人には思えないし、里見がけっして善人にも思えない。