Posts Tagged ‘考え’

イライラの原因

2009/03/22(Sun) Diary

最近ずっと勝手にイライラしていて、焦燥感みたいな気持ちがずっと消えなかった。それは単に担当しているプロジェクトがリリース間近だからとか、タスクが多すぎるからだろうと思ってたんだけど、落ち着いて考えたら少し原因が分かった。理想と現実のギャップが大きいからだと。

提供したいこととクライアントから求められることのギャップ、自分の考えた・思い描いていたものと出来上がったもののギャップ、自分が伝えたことと相手が理解したことのギャップ、今やっていることと最終的にやりたいことのギャップ、力を注ぎたい所と時間を割かれてしまっているところのギャップ、などなど。

担当しているプロジェクトでうまくディレクション出来なかった事への反省もあるし、自分の処理能力の低さ加減にもイライラしたりしているけれど、総じてまとめると「理想と現実のギャップ」に集約される。誰かのせいにするつもりは全くなく、チームでやっていることを否定するわけでもないという前提で、全ては自分の力不足。そういればそういえばだれかに「いわごろは理想が高すぎる」と言われたっけ。

「理想と現実のギャップを埋めるのがマネジメントの仕事」と某社長が言っていたけれど、理想を持つことは悪いことではないとは思っている。ただ、それに焦って勝手にイライラするのではなく、目の前の仕事というつい近視眼的になってしまうプロジェクトやタスクをこなしながら、理想とするゴールはきちんとぶれないようにしっかり定めつつ、すべてのプロジェクトやタスクをそのゴールへの通過点としなければ、と自戒。今は出来るところまでやってみる。ゆったり構えたり諦めたり自分の専門を決めるのは、もうちょっと年取ってからでいい。若い青いと言われても、実際に若いし青いんだからしょうがない。と開き直る。

26歳。

2009/03/16(Mon) Diary

26歳になりました。毎年誕生日にはブログを書いてると思ってたんですが、23歳を最後にここ2年ほどは書いてなかったみたいです。でもまぁ、最近ブログあんまり書いてないので、考えている事を整理がてら残しておくことにします。たぶん散漫でまとまりがない文章になると思いますが。

今の自分の頭の中で漠然と思っているのは、福井で暮らしながら、福井のクライアントと生活者のために、チームとしてはコミュニケーション、いわごろ個人としてはインフォメーションアーキテクチャを軸に、顔の見える個人に向けて一つ一つ丁寧に仕事をしていきたいなぁということです。これまでこのブログに書いてきたいくつかの目標の中から、こぼれ落ちている物(ex.技術)もあれば変わらずに持ち続けている物(ex.ウェブ)もあり、いろいろ形を変えながらではありますが、今に至ります。

なんとなくではありますが、思い通りになる事よりも、思い通りにならない事の方が最近増えてきたように思います。そのおかげかどうかは分かりませんが、以前に比べるとだいぶん寛容になったと思いますし、どうせいろいろこぼれ落ちてしまうのだからと自分の考えや想い自体は以前にも増して刺々しくなっているようにも思います。

また、自分を壊そう壊そうと意識的に動いていたりもします。今までの自分が作りそうな物をいったん否定してから物を考えていくようにしたり、新しい分野になるべく顔をつっこんでいろいろなことを覚えたり、これまで得たことを学び直したりということも意識的にやっています。若干散漫な感じもしていて、フォーカスがゆるんでいるという風にも思っていたりはしますが、仕事でもスケジュールやクオリティを守れる範囲であえてカオスにカオスになるようにしています。今後のためには、無駄なことではないだろうと思って。

僕が仕事をし始めたときの初めての上司というか、先輩的な人と僕が初めて会ったとき僕は17歳でその人は26歳くらいだったように思います。1・2歳間違ってるかも知れませんが、まあその人はそのぐらいの年でした。その人みたいになろう、なんて事は今は思っていませんが、これまで仕事をしてきた中で、26歳になったときに、26歳の時のその人を超えられているだろうか、みたいなものが心のどこかにずっとありました。

超えるも何も時代や社会の環境も違うし、何をもって超えたとするのかという明確な基準があるわけでもないです。そしてその人はそのときから8年くらい経ってまたどんどん先を走っていっているので、永遠に追いつくことはないでしょうし、距離が縮まっているのか、差が開いていっているのか、それさえもよく分かりません。

ただ、けして縛られているという意味ではなく、これからもずっとどこかでその人の影を追いかけていくような気がしています。向こうにしたらはた迷惑な話かも知れませんが、個人的にはその人のような羅針盤的な人と出会えたことはとても幸せなことだと思うし、僕が言う話ではないと思いますが、東京でどんどん先を走っていって欲しいと勝手に思ったりしています。僕もその背中を追いかけて、若干向かう方向は違うのかも知れませんが、福井で走っていきたいと思っています。ちっぽけではありますがこれまで蓄えてきたスキルと経験と17歳の時の初心を両方忘れずに、明日もまずは目の前のことをきちんと形にしていきたいと思います。不束者ですが、26歳になったいわごろを宜しくお願いします。

巧告。

2009/02/11(Wed) Book

巧告。 表紙
巧告。
企画をヒットさせるために広告クリエイターたちが考えること
眞木 準 (著), 副田 高行 (著), 中島 信也 (著), 山本 高史 (著), 京都広告塾 (編集)

「表現」という営みに参加しているぼくたちが達成すべき目的は何なのかといえば、それはやはりコミュニケーションをつくることではないでしょうか。

会社の人に借りて読んだ本。会社の環境上広告系の、これまで自分が買おうと思っていなかった本がいっぱい転がっているので、ちょくちょく本棚を覗かせてもらっては借りている。

最近よく言っている言葉だけれど、ウェブを作る人は、まあウェブの知識も必要なんだけれどそれはあくまで最低限やるべきことなので、それ以外にグラフィックデザインとか広告とか認知社会学とか宗教とか、そういうウェブ以外の知識を仕入れた方が良いと思う。本でも映画でも人に会うのでも良いけど。

ウェブの人は、どうも思想を持っている人が少ない。たまにいるのだけど、そういう人はたいていどこか違う分野でそういった思想を確立させてからウェブに来ている人が多いように思う。じゃあお前は持ってるのかと言われれば持ってないのだけど、持とうとしてるからもうちょっと待って。

以下返してしまうので付箋を付けたところの書き出し。

クリエイティブディレクター 山本高志
・受け手の言って欲しいことを言ってあげる。
・大きな声を出すこと、相手の知らないことを言ってあげること、受け手が言って欲しいことを言ってあげること。
・ふつうの人であること。
・世界最小最軽量のバカ
・「20本のバラからのぞく妻の顔は20年前の笑顔でした」これははっきり言ってしまえば嘘です。

アートディレクター 副田高行
・写真、タイポグラフィ、イラスト、タレント

CMディレクター 中島信也
・「あなたは頭は悪いが足が速い。コースは私が考えるから、そこをつっ走れ。(佐藤雅彦)」
・「表現」という営みに参加しているぼくたちが達成すべき目的は何なのかといえば、それはやはりコミュニケーションをつくることではないでしょうか。
・「すぐれた才能にすごい努力を掛け算して、さらにそこに「悪」を掛けてしまえば、社会にとって役に立たないどころか、その仕事は社会に対して悪い影響を与えるものになってしまいます(稲森和夫)」

コピーライター 眞木準
・キャリアを生かした社会貢献は、当然の責務だと考えているからです。

おはよう、今日も元気です。

2009/02/08(Sun) Clip

れっかブログ 終了のお知らせ

私は日々、思う事や信じる事を私なりの観点でこのブログで書き綴ってきましたが、たとえば「それは書かなくてもよい」「それは言うべきではない」と私以外の人に判断されてブログを書くことには何ら意味を見いだしません。

こんな性格なので、政治的なこと、歴史的なこと、社会的なこと、もしくは施設や業者などの実名を挙げてのブログをさんざん書いてきましたが、それについても書かないことが望ましいと言われれば、もう書けることがありません。「おはよう、今日も元気です」それだけのブログならば、私が書かなくてもいいような気がします。

私にとっては、leccaであることと、自分のプライベートや信念には、なんら壁がありません。社会への憤りや不満、政治や宗教に関する考え、日々感じること全てが私の発言と行動、音楽へとつながっています。ここのブログを書くことの面白さも、日々音楽だけでは伝えきれない自分のメッセージを載せることができるというところにあったのですが、leccaとしてそれはやって欲しくない、とスタッフから言われたのでやめることにしました。ただし、私は口を封じられることも、自分の発言をなかったことにされることも断じて容認しません。いかにスタッフだとしても、私の過去のブログ記事を抹消して、私が深夜1、2時間かけてせっせと心をこめて書いた文章、それに全国から皆が移動中/休憩中/就寝前(ときには仕事中)などにせっせと入力してくれたコメントをなかったことにすることが断じて許せません。

結局いわゆる芸能人ブログに感じている僕の違和感ってこれなんだなと思った。今163件購読しているRSSの中に芸能人はほとんどおらず、過去に購読していた酒井若菜とかの何人かの芸能人たちはだんだんブログをやめていってしまう。(水樹奈々のブログは購読しているけどあれは写真を観たいだけで文章もコメントも読んでない(謎))。

注意してみないと分からないけれど著名人が仕事場であった著名人を撮影した写真の中には絶対に某事務所のタレントは写らないし、いわゆる「おはよう、今日も元気です」ブログをただ一方的に書いて、好意的なファンのコメントのみが掲載される。ネガティブコメントはなかったことにされる。

スマイリーキクチの件までいってしまったらそれは罰せられてしかるべきだと思う。酒井若菜も書いていたけれど、ファンとの交流と言えば聞こえが良いが、芸を生業にして生きている人間がその商業上の人格のままファンに暖かいコメントという許しを請うているような感じがする。商業上の人格を捨てた個人で書くのは好きにすればいいと思う。

商業上書けない事があるのは仕方ないとしても、芸能人として芸を生業として生きていきその人格でブログを書くのであれば、まっとうな批判コメントを正面から受け入れるべきだと思うし、それをする覚悟がなかったり商業上思想信条を公表するのが好ましくないのであれば、毎月の定期収入という甘い誘惑に負けずにテレビの中だけにいるべきではないかと思う。

学歴がどうのこうの

2009/02/03(Tue) Clip

学歴と職について – 言語ゲーム

そこが私のコンピュータ業界への入り口でした。入って分かった事は、ここでは学歴という物が全く問題視されないという事です。美大卒という怪しい経歴にも関わらず、すぐに給料は倍に増えましたし、大学の話が会話に登る事すらありません。やっぱり若い業界って素晴らしい。

僕は書類上は通信制高校卒なのですが、当時は仕事ばかりしていたのでその時に何を学んだかさえろくに覚えていなくて、まともに学校という場で学んだのは中3の始めくらいまでです。基本的に僕は学歴については、医者とかその職につくために必要なら取ればいいし、そうでないならとってもとらなくても良いのではないかと思ってます。

とはいえ、やっぱり無いものの立場として、少し前まではコンプレックスまではいかないけれど、気にはなっていました。高卒の人をひとつかみ、大卒の人をひとつかみして競争させると、「確率的」に大卒の方が優秀な人は多いです。個人的にこれまでであった人を見ていてもそう思います。

僕がいままで何となくやってこれたのは、インターネットという学校では学べない分野を仕事にしたからであって、それでお金を稼ぐにはそれにふれるのが一番の近道だったからだろうと思います。これが興味を持ったのが医学であったら、おそらく今僕はもっときつい状態であっただろうと思います。

今仕事をしていて思うのは、学歴があるかないかではなく、「学(知識や考える力)」自体や、「学を得続けようとする力」をもっているかどうかが大切なんだろうなということ。そして、学歴があったからと言って学を手に入れられるとは限らないですが、あった方が「手に入れやすい」んだろうな、という事。学歴が無くても学は手に入ると、若干願望も入っていますが、そう思います。しかしまあ、眠いですなぁ。

変わるものと変わらないもの

2009/01/25(Sun) Diary

新聞もテレビも減収減益で、「マスゴミ」とか「クイズ番組ばかり」と叩かれて久しいわけですが。コンテンツとパッケージと分けて考えたときに、コンテンツ力は衰えていなくて、パッケージが古くなっただけなんじゃないかと思ったり。

ネットユーザが新聞を読まないと言っても、ブログで批評する元ネタは新聞の記事なわけで。アルファブロガーだネットジャーナリズムだと言っても、仮に新聞社が潰れた時にそのアルファブロガー達が社会保険庁や内閣に対して取材するかというとたぶんしないし、信憑性は新聞以上に怪しいわけで。

テレビも、この時代に毎週同じ時間にテレビの前に座れと言うのが無理な話なだけであって。ニコニコ動画でMADを作って遊んでいる元はテレビ局が作った番組やニュースなわけで、それが無くなったら成立しないのではないかと。あんだけ衛星だなんだでチャンネルを増やしすぎてコンテンツ制作力が追いついていないだけで、制作力そのものは腐っていないのではないかと。

新聞は販売店の食い扶持の事とか、テレビは業界規模がシュリンクしてしまうと思ってやりたがらないとは思いますが、新聞は無料公開しているネットサイトを月額固定有料制にしたり、テレビはすべて番組単位で購入できるオンデマンド形式にしてあげると、短期的には現状の下げ止まりを止め、中期的には復興するのではないかと。パッケージが腐ってきたからと言って、コンテンツまでだめだと言ってしまうと、最終的にユーザが不利益を被ってしまう。

障害は個性か?

2009/01/24(Sat) Clip

向き合って 歌手・今井絵理子さん(25) (下) – 産経新聞

SPEEDのボーカル、今井絵理子さん(25)は重い聴覚障害をもつ長男、礼夢(らいむ)君(4)に言葉を教えるため、ともに口話法や手話を学び始めました。同じ立場にいる母親たちとの交流で「障害は個性。個性を認め合える社会になってほしい」という思いを強くした今井さん。息子の障害を公表し、音楽活動を通して、メッセージを発信し続けています。

障害は個性ではないだろう。障害は、その名の通り「身体の器官が何らかの原因によって十分な機能を果たさないこと。また、そのような状態。」であり、「物事の成立や進行の邪魔をするもの。また、妨げること。」という意味以上でも以下でもないと思う。「障害は個性」だとか、「その子を育てられる親の元に選ばれて生まれてきた」とかはただ美化して目を背けているだけなので止めた方がいいと思う。

個性という言葉は、「個性を伸ばす教育」とか「個性を潰している」という文脈で使われるポジティブなものであって、もし障害が個性だというなら、「耳の聞こえない子供が欲しい」とか「片腕のない子供が欲しい」とか、「肝機能障害のある子供が欲しい」という親がいるはずだけれど、そんな親は聞いたことが無く親の願いは常に「五体満足で健康に生まれてくること」。障害を軽く見ているわけではなく、きちんとネガティブな物だと認識せずに、個性だなんだと美化していると子供本人が不幸だと思う。

障害を持った子供の親は、つらいがまず「害」であることを認め、治療やリハビリで可能な限り正常な状態に戻すか、それが不可能であればその障害が影響しない道を示してあげる事こそがきちんと向き合うことなんじゃないかと思う。仮に自分の子供が障害を持ったら、そうするだろうと思う。そうしてもらって、感謝しているし。

障害を持っていると、それを明かすにしても、隠すにしてもしんどい。明かすと変な奴だと言われるか、障害を持っていてもがんばっていると言う人が大半で(全てではない)、そんな風に言われるのはしんどい。しかし隠すと、なんで誰でも出来る事が出来ないんだと言われたり、見た目が変だと言われ、それはそれでしんどい。綺麗事抜きで、障害を持って生まれて良かったと思っている人なんていないんじゃないだろうか。

障害を持った当人は、「障害があったから、人を思いやる気持ちを持つことが出来た」とか、「障害があったからそれをバネにしてがんばれた」と強制的に自分を肯定することが最善の策ではないかと思う。当人があまりに障害のことを気にしすぎると、今度はその当人を産んだ本当は何の落ち度もない親までが「自分のせいで…」とネガティブなスパイラルに落ちていってしまう。

この方法も目を背けていると言われてしまえばそれまでなのだけれど、僕が今考えつく最善の方法は、可能な限り正常な状態に近づける事を試みた上で、強制的に自分を肯定して障害が障害とならない道を探し、また、肯定しているように周囲に思ってもらう事ではないかと思う。と、読み返してみると、今井絵理子は美化する方向に向かい、僕は無視する方向に向かったというだけで共に現実から目を背けていて、本質的な所は同じではないかというような気がしてきた。

Mashup Seminar in FUKUI

2009/01/17(Sat) Event

Mashup Seminar in FUKUI
Mashup Seminar in Fukui

「Mashup Seminar in FUKUI」に行ってきた。会場に入った瞬間、「あ、なんか空気違う」と感じてしまって、その勘は当たっておもいっきりエンジニア向けの内容だった。イベントが悪いと言っているのではなく、ターゲットじゃなかったなと感じた。なので結構客観的に過ごした。イベント後の交流会にほとんどの人が残っていたので、エンジニアにはいいイベントだったのだろうと思う。

行く前に思っていたテーマが、「マッシュアップとか福井に必要なの?」ということ。ネットは好きだし、新しいテクノロジーが出てくることはとても楽しいと思う。でもそれを、どこかで「進化」ではなく飽きやすい人間の志向の「変化」だとか、それで福井の人の暮らしは何か変わるの?と思っている自分も同時にいるので、その変を考える時間になればと思っていた。

グローバルに考えようというという話とか、リクルートがマッシュアップを自社のビジネスに活用しているという話はたしかに理解できる自分もいるし、そういう話は好きだ。でも現実には福井で生活している僕の親の世代とか、限られた商圏で商売をしている会社には全然関係ないと思う自分もいる。「分かる人だけ分かっている」ような感じがどうも離れなかった。限られた人だけで盛り上がっている技術ってどうなの、という。

特に「世界はプログラミングできる物とプログラミングできない物の二つに分けられる」というキーワードには、悲しくなった。食べ物を作っている人もいれば、洋服を作っている人もいて世界は回っている。世界は二元論で語れるほど単純ではないし、安易な二元論は世界を疲弊させる。講演者は食べ物の生産なども含めた広義の意味でプログラミングという言葉を使っているようには思えなかった。

プログラミングを否定しているのではなく、自分の好きなものが最上位であるというような雰囲気がなんとなく理解できなかった。僕はウェブサイトを作ることやコーディングや情報設計がとても好きだけれど、それが最上は思ってなくて、それを使う人や利用する人がいて初めて存在できると思っているので、どちらかというと下位の事をしてると思ってる。

でもまぁ、この辺は個人の志向の話かもしれないです。医療ドラマでよくある、「臨床医は目の前の患者しか救えないが、研究医は未解決の病気の治療方法を発見することで数千人の患者を救える」というような話で、僕が前者をやりたいと言うだけの話か。どっちが大事とかではなく、両方必要なので。

MovableTypeからWordPressに移行。

2009/01/03(Sat) IT

突然思い立って、このブログの管理ソフトをMovableTypeからWordPressに移行してみた。思い立ってから2時間でデザイン以外の部分はほぼ稼働できたので、やってみればなんとかなるもんだ。前からやりたかったtwitterやflickrやdeliciousもプラグイン入れてとりあえず表示できる所までは持ってきた。

去年からちょこちょこWordPressをさわって何となく慣れていたし、このブログのエントリが1,000件を超えてから再構築に結構時間がかかるようになってきたりしていたり、最近アップデートしたXHTML+CSSで全部コードを書き直したかったり、といろいろ理由はあるのですが、今年の目標「再構築」にちょうどぴったりなのでは、と思って勢いでやってみた。

パーマリンクとかRSSフィードも変わってしまうのですが、というかあえて変えて、心機一転な感じ(謎)。レイアウトやデザインはフルリキッドにしてみたいなぁとは思ってるんですが、ちょっとまだ考え中です。blogとtwitterとflickrとdeliciousの統合されたフィードも用意してライフストリーミングぽくしてみたいなぁとも思ったり。正月の間にある程度形にしてみます。

右翼と左翼

2008/12/23(Tue) Book

右翼と左翼 表紙
右翼と左翼
浅羽 通明(著)

「左」「左派」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。

(中略)

対するに「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」がさかしらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。ゆえに、たとえそれらに何ら合理性が認められないとしても、「長い間定着してきた世の中の仕組み(秩序)である以上は、多少の弊害があっても簡単に変えられないし、変えるべきでもない」と結論します。

本書では一応ざっくりと引用したような定義がされているんだけれども、個人的には「右は現実主義・現実肯定」「左は理想主義・理想追求」という考え方の違いだけであって、目指すところは同じ、表現方法(戦争かテロ)が違うだけでロジック(この考えを世界に広めなければ!的な)は同じように感じた。

日本で言うと、戦後など社会の様々なクオリティがあまりにも低かった時代には理想を追求する左翼がもてはやされたけれども、ある程度物量的に満たされてきた現代では左の力が弱まり、日本の右傾化と言われるような傾向になってきた。でも、社会や経済情勢が不安定になった今左が再び強まってきた。という感じではないかと。

既に権力や実務運営をしている政権与党や高所得者は現状肯定・改善という考えで右に振れやすいだろうし、そういうものを持たない一般市民や低所得者やマイノリティは格差破壊や平等の実現という考えで左に振れやすいという印象がある。

僕は、これだけ価値観が一極にぶれやすい日本社会の中で、常に一定の価値観を保っている皇室は価値があると思うし(皇室関係予算180億の6割(110億)を占める宮内庁費はもっと削減できると思うが)、人間はそんなに高尚なものではないと思っているので右寄りなのかなぁと思う。でも、「自由」「平等」「人権」が実現できるものならそりゃあそうなった方がいいと思ったりもするので、右7:左3ぐらいなのかなぁと。