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ベーシックインカムは成立するのか

2008/12/23(Tue) Society

「ベーシック・インカム」を支持します – 評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」

どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。

また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。

読んだ直後は、公共事業で間接的に国民にばらまいているお金を直接的に分配すると言う意味でいい仕組みなのかなぁと思ったんだけど、それで社会はまわるのかなぁという不安が出てきた。おそらく経済は理屈的にまわる計算を立てることは出来ると思うんだけれど、そこで実際に働く人間がそれについて行けるのかなぁと。

以下ちょっと言葉が乱暴ですが、文脈を通してご理解下さい。世の中にはあまりやりたくないきつい仕事というのもあると思う。例えば、屠殺をする仕事だとか、ゴミの収集だとか、ペットの処分をする保健所だとか。もちろん誇りを持ってやっているヒトもいるのは理解できるけれども、同じ収入がもらえるほかの楽な仕事があったら、そっちにいってしまうのではないか。

そういう仕事に従事している人が「同じ収入がもらえるほかの楽な仕事」としてベーシックインカムをあてにした場合、「社会構造上必要だけれどあまりやりたい人がいない仕事」に人が集まらなくなり、社会が回らなくなり外部委託(国外や外国人労働者)することになると、社会運営のコストが増えてベーシックインカムの財源に影響するのではないかと。

アルファブロガーとか、経営コンサルタントとか、プログラマーとかディレクターとか、そういう職種だけで社会が成り立つのなら成立する仕組みだとは思うけれども、社会全体の従事者数からするとけっして多くはないわけで、その人達を食わせている側が崩壊するのではないかと思ったりするんだけれど。

螺旋の道

2008/12/09(Tue) Diary

「世代」というくくりで物事を考えることはあまり好きではなかったんですが、最近ひしひしとそういうものを感じる。辞書では約30年を1世代と数えると記されていたけれど、現実は10年程度で社会をどうとらえるか、社会の中の自分をどうとらえるか、という平たくいえば価値観が変わっているように思う。

以前からぼやっと感じていたことが年金に関する議論を眺めていた時に明確になった。例えば今、5歳の子供と、25歳の僕と、45歳の社会人という3人がいた時に、この3人は同じ2008年という時代を生きているけれども、違う時代を生きているのだという事に気づいた。それは人生をスタートしてからの時間の違いであり、積み上げてきたものの違いであり、残りの時間の違い。

5歳の子供は社会というものをまだ認識していないかもしれない。25歳の僕はこれから自分と社会が共に楽しんで生きていける折り合いがどこにあるのかを探しているのかもしれない。45歳の社会人は自分としての芯が定まり子供も自立してさあどう自分の終演に向かっていこうかと考えているのかもしれない。

その3人の前に同じ問題と選択肢が提示されたときに3人が選ぶ答えは、思想信条や環境が同じであっても、同時代性を保持していたとしても、自ずと異なる事が自然なのではないかと思う。そしてそれはどれも正しいし、どれも間違っていないように思う。何か意見の相違があったときに、それを闇雲に時代や世代のせいにはしたくないけれども、その人達が見ているゴールまでの距離が違う以上、必然なのではないかとも思う。

数世代単位でみた人間の長期的変化が螺旋的変化であるとするならば、同じ轍を踏んでいるように見えることでも世代という要素によって微妙に異なるものであろう。おそらく人間は基本的には1世代単位でリセットされていて、どんなに歴史や技術の積み重ねがあったとしても同じ事を繰り返さないと理解しないのではないか。

螺旋の道は、4〜5世代程度で同じ位置に戻るというのが個人的な感触。達観でも諦観でもなくその流れであることを見極めて、仮に自分より後に生きる人たちを見て「同じ轍を踏もうとしている」と感じても「再度挑戦している」と捉えられるようになりたいし、何か言葉を求められたらその観点での言葉を返したい。それはもうほとんど、希望というような境地であるのだけれど。

どうしたら私たち二人の望みをかなえられるだろう?

2008/12/04(Thu) Diary

useless

「相手の気持ちを考える」という行為は、一種の想像力です。その時に、「あの人と、私の望みが違ったらどうしよう…」「どちらかをあきらめなければいけない…」「私が無理をしなきゃいけないのかな…」と葛藤して考えるか、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えるのかで、人生が大きく変わります。

葛藤を感じたとき、我慢しないために自分を押し通すのでもなく、罪悪感を感じたくないがために他人に譲るのでもなく、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えてみてください。今日から両方が満足する方法を考えるクセをつけてみてください。

ここ最近ずっと考えているんですが、その中で達した結論を表すとこういう事だと思う。いろいろな枠組みを外して、僕とあなたという個人間の繋がりだけに絞ってものごとをとらえ直してみたときに、ふとお互いがハッピーになる現実的な可能性が一番高いと思える答えが浮かんできた。

きっと相手はそれを望まないだろうし、嫌われるのかもしれないし、可能性が高いと考えているだけで実際どうなるかはやってみないと分からないんだけれど、小さな脳みそと狭くなりがちな視野を精一杯広げて考えてそう思った。

戦争を起こさないために

2008/11/30(Sun) Society

今日のそこまで言って委員会は国会招致以来初のテレビ出演となる田母神氏(航空自衛隊前航空幕僚長)に加え、松島悠佐氏(陸上自衛隊元中部方面総監・阪神淡路大震災時の最高指揮官)、川村純彦氏(海上自衛隊元海将補)と陸海空の方々が揃って、90分全て使っての国防スペシャルでかなりおもしろかった。

議論は必然的に自衛隊の存在意義に進んでいくんだけれど、右派と左派(あまりこの言葉は好きではないですが)が「戦争を起こさないために」という共通の理念の元全く異なる主張を展開する。田母神氏など自衛隊経験者や右派は、抑止力としての軍隊を持つ事での相互抑止による実現を主張し、原和美氏(新社会党副委員長・次期衆院選出馬予定)を中心とする左派は「話し合い」による主張をし、まったくかみ合わなくなる。

原氏を含め左派の主張はどうも弱く完全に思考停止している。「なぜ『他国が攻めてきたら』という仮定の話をするのか。その前にそうならないための話し合いが重要。」という一点突破で理論を展開する。たしかにそれは理想だけれど、現実的には話の通じない隣国があるし、そこまで広げなくても左派と右派でさえ話が通じていないという現実の状況を理解していない。

よく使われる理論かもしれないけれど、原氏は自分の家に鍵をかけずに外出できるのだろうか。全ての人間が顔見知りの小さな村なら可能かもしれないけれど、国や世界というレベルではそれは不可能。そのために対国内用に警察があり、対国外用には軍隊がある。一個人としてみれば原氏は気のいい人なのだけれど、こういう人は国会議員になってはいけない。他人の命を預かる立場になってはいけない。

また、左派は「過去の反省」や「再び軍国主義になってしまう」という主張をよくする。たしかに過去は軍国主義だったと思うけれど、現在は間違いなく軍国主義ではないし、過去はほぼ全ての国が軍国主義だった。という話をすると「他人がやるなら自分もやっていいのか。悪いことは悪い。」という話が帰ってくるのだけれど、それは時代性を考慮する必要があって、悪かったからそれの反省を踏まえてシビリアンコントロールを働かせている現代がある。現に田母神氏は政治によってきちんと更迭されている。

個人的には、宮崎哲弥氏も言っていたけれど、憲法9条を改正して「自衛のための戦力を保持すること」、「戦力は他国への侵略や脅威の破壊には使用しないこと」、「核の保持と使用を「放棄しない」こと」を明記する方が、最高の案ではないけれども、一番現実に即した案だという考えに至る。

過去の反省を踏まえて、未熟だった「軍国主義」が今は少しましな「民主主義(相互抑止)」になったように、今後理想の「話し合い主義(完全武力放棄)」というような世界に移行できるのかもしれないという希望は確かに持っている。でも、「民主主義」というルールの世界で一人だけ「話し合い主義」のルールで動いていると、世界が「話し合い主義」に移行するまでの間に日本は消えてしまう。

裁判員制度の穴?

2008/11/29(Sat) Society

あらかじめ断っておくと、個人的には裁判員制度に全面的に反対というわけではないし、選ばれたのなら参加してみたいという気がしているけれど、そもそもこの選出制度に穴がある気がしてきた。以下勝手な想像です。主にWikiPediaの記述を元に考えます(汗。

裁判員の選出は、まず市町村の選挙管理委員会が「裁判員候補予定者名簿」を作成する。次に地方裁判所がその名簿を元に「裁判員候補者名簿」を作成し、選ばれた者にその通知をする。現在この段階まできており、この段階で回避するのは日本国籍のある人間には不可能と思う。

次に、裁判員制度対象事案が発生する毎に、地方裁判所が「裁判員候補者名簿」を元にくじで抽選をし、選ばれた者に「質問票」と「呼出状」が自宅に送付される。この時点では、禁固刑に処せられたことがある者や、法曹関係、警察関係者、事件の利害関係者などしか断ることが出来ず、この段階でも民間人の回避は難しい。

で、最後に呼び出し状を元に地方裁判所に出頭した裁判員候補者は裁判長と面談をするわけですが、「仕事が忙しい」とか「やりたくない」では当然断れない。でも「不公平な裁判をするおそれがないかどうかの判断」という項目があり、たとえば「私はどんな罪でも罪は罪なので全員必ず死刑にします」と言えば不適格者扱いになってほぼ100%の確立で回避出来そうな気がする。

仮に虚偽の返答をした事への罰則があったとしても、裁判所側が思想信条の裏付けを取ることはかなり難しいであろうし、選出段階でそこまでの手間をかけるにはあまりにも不毛なので追求は緩い気がするのですが、どうなんでしょうか。

回避を推奨しているわけではなく個人的には参加してみたいと思っているんですが、こういう場合裁判所はどういう対応を考えているんだろうかと不思議になった。義務だからという理由で性善説で考えているんだろうか。

引用祭り

2008/11/27(Thu) Clip

過去の自分のdeliciousより。古いのもあるのでいくつかリンク先が無くなっていたりしますが、まあ。

朱雀門 著:山岸凉子

自分が100パーセント許されることを期待しながら、相手を1パーセントも許さない人間だったのよ。そういう人間が他人を愛せると思う?

altba | shinzo | shinzlog | look forward | entry archive (October 31, 2003)

そういう意味で、健全な上昇志向をもっている人には、僕が知っていることや、経験してきたことを、教えたり話すことを、これからも続けていくと思います。そして、それによって知らないことを逆に教えられる、という自分の学習を続けたいと思います。でも、僕は自分が学ぶので精一杯です。僕には、健全ではない上昇志向を基に、デザインを利用しつつデザインの力を馬鹿にするような意識の人に「そうではないんだ」という事を説いていくほどの余裕はありません。それよりも、「もっと良いものを。もっと先へ。もっと役にたつものを。」と思っている人たちと、デザインというものを考えて行く時間を大切にしたいと思います。よろしくお願いします。

助け舟|渋谷ではたらく社長の下ではたらく社長のアメブロ

素直さや謙虚さが足りないと、単に怒られていると思ったり、逆切れしたりして、助け舟をみすみす逃してしまうのです。

切込隊長BLOG(ブログ) – 「自分は要らない存在じゃないか」と悩んだ人と考えるトピック

その多様性こそが存在の証であって、一人の人間が、たとえ自分の存在に疑いを持ったとしても、そこに在る限り理由なく人は継続されるのである。

「おろかもの」の正義論 – drillhanz

事実の記述が非難として感じられるなら、非難しているのはわたしではなくあなたの良心だ。

風の帰る場所–ナウシカから千尋までの軌跡 著:宮崎駿

ただ、生き物っていうのは動態だからね。動いてる。静的な存在じゃないから。だから、同じ人間でもね、ものすごく愚劣な瞬間があったり、それからなんかやたらに高揚してね、あるいは実に思いやりに満ちたり、そういうふうに揺れ動いてるものなんですよ。

日本の不都合を追いかける – 深町秋生の新人日記

この世でもっとも罪深い行為は殺生でも姦淫でもないと私は思う。たぶん最悪の罪は無知でいることだろう。さらに自分が無知であるのをいいことに偏狭な正義をふりかざすやつが一番始末におえない。しかしこれは私自身も偉そうなことはとても言えそうにない。私も常に恥ずかしくなるくらいに無知だからだ。

「世界観、ビジョン、仕事、挑戦—-個として強く生きるには」講演録(JTPAシリコンバレー・ツアー2008年3月6日) – My Life Between Silicon Valley and Japan

僕が言いたいのは、「やりたくないことをやるな」ということでなくて、「意味のないことをやる」ということに対して、緊張感をもって生きる、そういう姿勢を持つべきだ、ということです。

404 Blog Not Found:義務教育は押しつけでもいいのではないか

社会があなたの個性を受け入れるとは限らない。闘争するにしても逃走するにしても折り合いの付け方は身につけといた方がいいよ。

昔話禁止令。|Tokyo Ochimasato Land

「今、僕が立っている世界は、ごみ箱の中さえ、子供の頃から憧れていたブラウン管の向こうにあるモノじゃないか」

告知せず

2008/11/17(Mon) Movie

夫「死ぬ準備をして待てって言うんですか。死ぬ日を、指折り数えて待てって言うんですか。あんたそれでも医者かよ。」

妻「もうやめて。先生に当たったってしょうがないじゃない。人間は誰でも、いつかは死ぬの。それが早いか遅いかってだけ。訳の分からないまま死んでいく人だっているのよ。でもあなたは違うわ。自分は何の病気で、何と戦えばいいのかちゃんと分かってるの。他の病院で見てもらいたいなら、そうしましょう。納得いくまで、ちゃんと付き合うから。あなたの思うとおりにすればいいじゃない。だから、ちゃんと戦いましょう。最後の最後まで、ちゃんと生きましょう。」

テレビ朝日で放送されたがん告知のドラマ。たまたまがんの緩和ケアについての本を読んだばかりだったので見たんだけど、号泣。ドラマ自体の話でいうと、滝沢秀明がちょっと浮いていて山田孝之とかの方がいいんじゃないかと思った。がんを患った高畑淳子が亡くなるシーンでも、なんで息子役の滝沢より見ている僕の方がわんわん泣いているんだ、とどうでもいいことを思った。

冒頭に引用したのは、自分の妻には告知せず自分の患者にがん告知をした渡哲也に対して怒りをぶつけた夫に、妻の高島礼子が語った言葉。その後、「先生、告知して良かったです。」と続く。人はいつか死ぬんだと開き直って、残りの人生を精一杯生きようというような考え方で、告知された大多数の人はそういう道を辿るのではないかと思ったりする。

それはたぶん端から見ると一番手っ取り早いプロセスに感じるんだけれど。ここからは完全に想像だけれど、人間は、年を取れば取るほど欲が増していく生き物なんじゃないかと思う。不老不死を願うわけではなく、子供の成長を見たい、孫の成長を見たい、出来うるなら可能な限り、それを見届けたい、という欲が大きくなっていった時期に、いきなり「残りの人生を精一杯生きる」という考え方に転換するのはかなりしんどいことなんじゃないかと、勝手に想像する。

自分はと言うと、ガンになったら告知されて何で死ぬのかをハッキリと認識して、そのプロセスを出来うるかぎりこのブログでも何でもに書き残していきたいし、自分に近しい人がそうなったとしても告知してしまいたいと思う。だけどそれは、自分一人だけではそういう重いものを抱えきれない事への逃げから来ている答えだと思うので、正直まだ分からない。

がん緩和ケア最前線

2008/11/16(Sun) Book

がん緩和ケア最前線 表紙
がん緩和ケア最前線
坂井 かをり (著)

自分は今がんではないし、身近にがんの人がいるわけではないのですが、そういう状況だからこそ客観的に読めるのではないか、と思って読んでみた。客観的に読み過ぎて全然実感は得られなかったんだけれど、切迫した状況の中で読んで考えが偏ってしまうよりはいいんじゃないかと思った。

本の中では、緩和ケアが積極治療の放棄ではないということを繰り返し主張していて、積極治療によって正常な細胞までダメージを受けたら緩和ケアでいったんダメージを回復させまた積極治療に戻ることや、初期の段階から緩和ケアと積極治療を共存して進めていくことなどを提案している。

ただ、現状だと医師の側が緩和ケアに患者を引き渡すことは医師としての敗北だというような変なプライドがあったりして、緩和ケアをネガティブなイメージでとらえまた患者にそのようなニュアンスで伝えるため、本来の緩和ケアが目指すところが実現されていない、という実情も紹介している。

まあ人はどうあがいても死んでしまうわけで、そうなると大切なのはそのプロセスなのかなぁと思う。そうなると、当人が一番納得できる、後悔しないと考えていることを実現してあげるのが最良なのかなぁと、一般的な結論になってしまった。

自分メディア

2008/11/16(Sun) Diary

という、どこかで聞いたことがあるようなものが、僕は今一番欲しいです。水樹奈々のDVDも、新しいMacBook Airも、本もいろいろ欲しいのですが、それはその「自分メディア」があってこそ欲しい、と言えるような気がします。自分メディアというのは、新聞が発するような社会性のあるニュースではなく、友達の誰がどこに行ったとか、何を考えているとか、何を買ったとか、そういう自分を中心としたごく限られた人の発する情報だけが集まったメディアです。メディアではないのかもしれないですが。

ちょっと話は抽象的になりますが、「自分」という単語やその存在というのは、「他者」があって初めて存在するわけで、もし地球上に人間が一人しか存在しなかったら「自分」という概念は存在しないわけです。あたりまえだけど。つまり、自分を構成している要素として「他者」というのは結構な割合を占めているわけで、その上での自分らしさとか、独自性とか、そういう話になるわけです。

で、そういう他者を通じて社会性とか、公共性とか、大げさに言うと政治とかそういう者に気づいていくと思うわけで。今のネットの時代、個人が発信している情報は結構あるんですが、全てが細かく分散してしまっていて、それの網羅性とか一覧性は全くなかったりする。

そこで冒頭の自分メディアという言葉に戻るんですが、そういう膨大に個人が発信している情報の中から、自分とその発信者個人という繋がりでのみ情報をフィルタし、一覧性を持たせることが出来るものが欲しいなぁと思っているのです。技術的には可能なはずなので。一番近いのはFaceBookなのですが、ソーシャル性はいらないと思う。すべての他者との間に双方向の理解があるわけではないので。

たまにはネットの話を。

2008/11/14(Fri) IT

なんだかブログに復帰してからのエントリが時事放談状態なのでネットの話。最近のネットはギークと呼ばれる人たちがウェブサービスを作るのがブームなのか何か知らないけれど、ポンポンと似たようなサービスが雨後の竹の子のように乱立していて、競争が激しくて結構なことだと思う。

ただ、ふつうに仕事をしながらネットをしている立場からするとちょっと飽和状態で、発信するためのツールだけあってもそんなに発信する情報とかないし、そもそも発信を全くしない受け身な人がマジョリティであるとおもう。テレビで慣れてるし。

アルファブロガーとかも結構な事だけれど、なんだかんだ言ってテレビのニュースキャスターが一言失言する方が遙かに影響力が大きい。OpenIDだインタレストマッチだっつったって僕を含む一部の物好き(アーリーアダプターですか)が追いかけてるだけで、正直実生活にはどーでもいい事だったりする(意義は分かってるけどあえて)。

と、なんかイノベーションを否定するような事を書いたけれど、別に冷めてるわけではなく、いろいろ高度な技術やアイデアを駆使してるけどそれって限りなく少ない人たち(それもほとんど東京在住)がネットの中で盛り上がってるだけなような気が正直する。なんというか、もっと実生活に根ざした事って出来ないもんですかね、と最近マジメに考えているのです。