Posts Tagged ‘死刑’

裁判員制度の穴?

2008/11/29(Sat) Society

あらかじめ断っておくと、個人的には裁判員制度に全面的に反対というわけではないし、選ばれたのなら参加してみたいという気がしているけれど、そもそもこの選出制度に穴がある気がしてきた。以下勝手な想像です。主にWikiPediaの記述を元に考えます(汗。

裁判員の選出は、まず市町村の選挙管理委員会が「裁判員候補予定者名簿」を作成する。次に地方裁判所がその名簿を元に「裁判員候補者名簿」を作成し、選ばれた者にその通知をする。現在この段階まできており、この段階で回避するのは日本国籍のある人間には不可能と思う。

次に、裁判員制度対象事案が発生する毎に、地方裁判所が「裁判員候補者名簿」を元にくじで抽選をし、選ばれた者に「質問票」と「呼出状」が自宅に送付される。この時点では、禁固刑に処せられたことがある者や、法曹関係、警察関係者、事件の利害関係者などしか断ることが出来ず、この段階でも民間人の回避は難しい。

で、最後に呼び出し状を元に地方裁判所に出頭した裁判員候補者は裁判長と面談をするわけですが、「仕事が忙しい」とか「やりたくない」では当然断れない。でも「不公平な裁判をするおそれがないかどうかの判断」という項目があり、たとえば「私はどんな罪でも罪は罪なので全員必ず死刑にします」と言えば不適格者扱いになってほぼ100%の確立で回避出来そうな気がする。

仮に虚偽の返答をした事への罰則があったとしても、裁判所側が思想信条の裏付けを取ることはかなり難しいであろうし、選出段階でそこまでの手間をかけるにはあまりにも不毛なので追求は緩い気がするのですが、どうなんでしょうか。

回避を推奨しているわけではなく個人的には参加してみたいと思っているんですが、こういう場合裁判所はどういう対応を考えているんだろうかと不思議になった。義務だからという理由で性善説で考えているんだろうか。

文民統制

2008/11/10(Mon) Society

ほとんど石破氏が書いてしまっているけれど、個人的な補足。

石破茂(いしばしげる)ブログ: 文民統制

今回の問題は、田母神氏の行動とその後の政府の対応が文民統制の観点からどうであったか、の一点に絞って論ぜられるべきものです。

今回の田母神前航空幕僚長の問題は、「彼が発表した論文のような思想を持ち、その上で航空自衛隊の高級幹部になり、その思想を社会に発表し、政治が彼を更迭した。」ことまでを全て含めて正しい事だと思う。石破氏も言っているけれど、たとえそれが自衛隊の指揮官であれ総理大臣であれ、どういった思想を持っていても問題がないと憲法では定めている。もちろん、その職責に伴う行動をすることは前提。

田母神氏まではいかないにしても、過去を全肯定している自衛隊関係者は社会全体に占める比率よりも高いのではないかと思っている。田母神氏に対して「よく言った」と思っている自衛隊関係者も結構いるんじゃないかと思う。それは、きちんと職務を遂行するなら全然問題ない。逆に、こういった主張が鬱積し、彼らの中で自己完結した思想の進化が進んでしまい行動に起こされる方がよっぽど問題。

そして、若干彼らに対して理解を示してしまうのは、そのコントロールをする文民(軍人ではない者)が、政治家はもちろん国民も含めて、彼らの事を正しく認識し活用できているのかなぁという事。某番組でも言っていたけれど、イラク戦争のように文民が判断を誤る事もあるわけで(個人的には誤ったと思っている)。

死刑論もそうだけれど、こうやって異なる主張を持つ者同士がきちんと議論をしている状態が一番安定しているんじゃないかと思ったりする。「軍隊」ではなく「自衛隊」という言葉はなかなか的を射ている言葉ではないかと思っていて、その健全な思想のなかでぼくらがコントロールしていく事が大切なんじゃないかと思っているんだけど。残念ながら人間は、世界共通の思想を持てるようにはつくられていないのだから。

見えぬものこそ。

2008/04/28(Mon) Society

「たかじんのそこまで言って委員会」に、光市母子殺害事件の元被告任弁護士が出ていた。そこまで言って委員会にしてはめずらしく、お笑い目的ではなく、出演者それぞれが感情をあらわにして様々な議論が交わされていた。

判決が出たときのエントリでは、正直気持ちがまとまりようがなかったので、少しだけ思ったことを書いてみた。今回の委員会を見ていて、今回はこういう結論になったけれど、本当はどういう結論に至るべきであったのかを考えてみた。

今回起きた結果とそれを行ったのが被告であること自体に議論はなく確定していることを前提に。今回そういう判断はされなかったけれど、たとえ心神喪失であったとしても、故意のない過失であったとしても、その経緯にかかわらず人の命を殺めたこと自体はいけないという基本に戻る。そのこと自体には反省し、被害者への謝罪と今後の更正をきちんと誓うべきであったのではないか。

その上で、過失でしたとか、心神喪失でしたとか、そもそも結果を招くに至った経緯がちがうだとか、そういう所を主張すべきであったのではないか。こういうとよく「認めて反省しないと心証が悪い=有罪であることを前提にしないといけない」という展開がされるのだけれど、それはまた違うのではないか。

「人が亡くなった」という結果自体は経緯はどうあれ間違いないのだからその点は反省すべきで、その経緯を説明し量刑を協議する。今回の事件が仮にそういう経緯をたどったのであれば、本村さんの反応も、メディアの反応も変わり、結果的に加害者が死刑台に上るのだとしても、その場所まで歩く彼の心境はまた違ったのではないか。

元々悲しいこの事件に、ハッピーな結末などないとは思う。でも、今回はすべてが一番最悪な方向に行ってしまったのではないかという気がしてならない。もちろん後から言うのは簡単だけれど、何も言わずにまた同じ事が繰り返されるのよりはましだろうと思う。

判決の重さ

2008/04/22(Tue) Society

【死刑判決で本村さん(2)】「彼が納得しているか見極めたくて、背中を見つめていた」 – 産経新聞

死刑という問題は、この法治国家ができてから古くて新しい問題で、答えがないと思っていますが、人の命を最も大事なもの思っているから死刑という制度も残されてきたのだと思います。この判決を受けて、被告に対して刑罰が重いという人、適したものという人がいると思いますが、それを論じても意味がないと思います。死刑というものがあって、人の命をこの国がどう判断するかということを国民の皆さんが関心を持ったから、(この事件に)世論が集まったんだと思います。死刑に関してはいろんな議論があると思いますけど、死刑存続の方も廃止の方も、目的は安全な社会をつくることに変わりはないと思います。だから犯罪を減らせるかどうかということに、私は人々の力とか労力を傾注すべきではないかと思います。両手放しに死刑は必要だとか間違っていないとか言えないので、迷いながら悩みながらこの制度を維持してゆくべきではないかと思います。

【死刑判決で本村さん(3)】「弁護人の正義は黒を白やグレーに変えることではない」 – 産経新聞

−被告の更正の可能性はあると思うか

可能性は十分にあると思います。過ちを犯した人間が悔い改めて更正できないことはないと思います。ただそれと罪の重さは違うと思います。

この判決が出るまでの9年は、長いですよね。9年前と言ったら、僕は16歳。働き始める前で、中3か高1ぐらいじゃないかな。記者会見で報道陣の質問に即座に的確な受け答えをしている本村さんを見ると、普通の人では出来ないくらい考え込まれているのが伺える。

それほどの考えを至るにたどった9年という時間は、本来本村さんが生まれたばかりの子供と小学校の入園式に出たり奥さんと旅行に行ったりして過ごす時間であったことを考えると、それを奪った被告にとって重すぎるとはいえない判決であったのではないかと思う。でも、まだ続くんだよね。

スタバではグランデを買え!

2008/01/20(Sun) Book

死刑 表紙
スタバではグランデを買え!
価格と生活の経済学
吉本 佳生 (著)

経済学をやわらかく解説した本。僕らが何かものを買う時、「物だけではなくサービスも含めて買っている」という考え方や、買うまでの移動や情報収集もコストとして考えるという考え方はとっても納得できる物だった。コンビニが新しく出店するならどこ?といった事例もあったけれど、ケータイにまつわる価格体系についての章が一番実感もあってわかりやすかった。

それよりも興味が行ったのが「比較優位」という考え方。自分の能力をきちんと見極めて、それが活かせるポジションを見つけてそこで確実な仕事をするという方法が、なんだか僕に会っているようで興味深く読んだ。

死刑 – 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。

2008/01/19(Sat) *Pickup, Book

死刑 表紙
死刑
人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。
森達也 (著)

死刑問題の本質は、「何故、死刑の存置は許されるのか」ではなく、「何故、死刑を廃止できないのか」にあるのだと思います。換言するならば、「何故、権力は死刑という暴力に頼るのか」、「何故、国民は死刑を支持せざるをえないのか」です。(光市母子殺害事件被害者 本村洋からの手紙)

今すぐ買った方がいい、と断言できる本。

danさんのブログで見つけて、お急ぎ便を躊躇なく選択して一瞬で買った。少し前のブログに書いた「自分の命をかけてまで子供の命を守ろうとした一人の人間が、同時に一人の人間に死んで欲しいと願うという事。」への解に出会えるのではないかという期待で。読み終わって思うのは、僕の一番好きな「赤朽葉家の伝説」は興味を持った人だけ読んでくれればいいと思うけれど、この本は興味のあるなしではなく、知らないといけない事だと思う。

ところで、僕は何故こんなテーマばかりに興味を持つのだろうか。mixiの新着日記に「死刑 – 人は人を殺せる…」なんて日記があがってしまうことをたまに申し訳なく思ったりもする。その理由の一つは、「ドラクエクリアしたよ!」という日記を上げる時より、こういう事について書く方が自分の頭をフル回転させないといけないという事。このブログを自分を知る為の鏡として使っている面もあるので、これは一つ大きな理由。そして、もう一つの理由は、本書が明確にしてくれた。

どちらも今のこの世界だ。僕らが暮らすこの世界と地続きに、煌びやかなテレビスタジオがあり、ホカホカと湯気を立てる山海の珍味があり、飢えと寒さで衰弱しながら死んでゆく子供たちがいて、そしてあの薄暗い処刑場がある。
その末端に、僕がいる。そしてあなたもいる。

僕は目を背けられない、見てしまったのだから。

死刑についての僕の考えは、過去にも書いたことがあります。

iwalog : 自分が生きるために。

確かにその通りだと思う。人には人の命を殺める権利などないと思う。そうだとするならば、汲み取るべき事情がある承諾殺人(人の承諾を得てその人を殺害する=介護疲れによる息子による親の殺害)など一部を除いて、人が人の命を殺めた場合、その人はその時点で人権を行使する権利がないのではないか。

ものを盗んだ場合、そのものか相当するお金でもって償う。そして、抑止の意味も含めて金銭以外の懲役などの罰をもって購わせる。はたして、自分たちが声高らかに主張するもっとも高貴な価値観である人権を侵害された場合、何をもってすれば償いになるのだろうか。それは、その人自身の人権ではないのだろうか。(もちろん、原因の究明は必ず必要という前提で。)

何もしていない人を死刑にするわけではなく、罪を犯した人を死刑にするのであるということ。これは本書を読んだ後だと、被害者の側面ばかりが報道されて、加害者遺族や死刑囚のその後を知るすべがなかったから故の発想だったと気づく。この考えは、本書の中で紹介される加害者遺族や死刑囚と刑務官のかかわりを読むことで、ある意味では変わるのだけれど、ある意味では変わらない。

また論理の面では、現行法を前提とする場合、現行法で死刑に値する人間を無期懲役などで処理した場合、多くはないとはいえ再び社会に出てくる事になる。現に酒鬼薔薇聖斗は社会復帰している。彼らは更正するかもしれない。でも更正しないかもしれない。更正しなかった場合のリスクをあなたは受け入れますかと言われたら、僕は受け入れたくない。これは本書の中でもオウム事件以降の過剰な厳罰主義・治安強化主義の結果もたらされた日本社会の傾向であると論じられている。

本書では、森達也は悩む。そして自ら悩みたがっているかのごとく、死刑廃止論の安田弁護士(光市母子殺害事件加害者側弁護士)、死刑判決が確定した元オウム真理教幹部の岡崎死刑囚、「モリのアサガオ」という死刑囚と刑務官を描いた漫画を書いている郷田マモラ、死刑確定後判決が覆って無期懲役となり出所した人物、犯罪被害者の側から取材をしているライター、存置から廃止に考えが変わった被害者、池田小学校事件の宅間守死刑囚(2004年9月14日死刑執行)の手紙、死刑があるからといって犯罪発生率が下がるわけではないというデータ(死刑が犯罪抑止力としては機能していないという趣旨)、冤罪の場合取り返しが付かないこと、冤罪は現在も続いていること、実際に執行する刑務官の苦悩、更正した死刑囚、更正しなかった死刑囚、更正など求めておらず被害者が生き返ることだけを求めている遺族、死刑囚とその家族の最後の別れなど様々なものに触れる。

そして、光市母子殺害事件遺族の本村洋とも手紙を交わし、本書の最後の方でその事件の加害少年とも接見し、結論を出す。結論も、その課程も、必読の価値がある。

僕の結論。読む前と変わらず、死刑は必要であるということと、被害者保護にもっと手厚くなるべきであると言うこと。でも読む前と変わったのは、その執行は慎重であるべきで、現行の死刑制度をもっと改良すべきであると思うようになったこと。

被害者感情を考えた時に、死刑という「選択肢」は必要であると思う。しかし、冤罪もあるし、死刑囚にも家族はいるし、更正する人もいる。でも、再犯のリスクもある。それらを考えると、社会制度としての死刑はやっぱり必要で、撤廃か存置かを議論するよりも、その運用の改善に目を向けた方が、幸せになる人の数が増えるのではないかと思う。

命というものの本当の価値

2008/01/08(Tue) Clip

3児死亡事故、被告に懲役7年6カ月 危険運転適用せず – 朝日新聞

福岡市東区で06年8月、幼児3人が死亡した飲酒運転事故で、危険運転致死傷罪と道路交通法違反(ひき逃げ)の罪に問われ、懲役25年を求刑されていた元同市職員・今林大(ふとし)被告(23)の判決公判が8日、福岡地裁であった。川口宰護(しょうご)裁判長は危険運転致死傷罪の成立を否定したうえで、予備的訴因として追加された業務上過失致死傷罪などを適用。業務上過失致死傷と道交法違反の組み合わせでは最高刑に当たる懲役7年6カ月を言い渡した。

川口裁判長は危険運転致死傷罪の要件である「酒の影響で正常な運転が困難な状態」について「正常な運転ができない可能性がある状態では足りず、現実に道路・交通状況に応じた運転操作が困難な心身状態にあることが必要」と判示した。

関連記事とか危険運転致死傷罪の条文を読んでみると、「今制定されているこの刑法通りの判断」を裁判長はしたのだろう。どちらかというと条文自体が脆弱で、何をもって「運転が困難な状態」なのかがあいまいすぎるのが、「飲酒運転で人身事故を起こしたら、大事故の場合は逃げて酔いが覚めるまで逃げ切れればセーフらしいぞ」といわれる所以なのだろうと思う。

「業務上過失致死傷罪」の場合、5年以下の懲役若しくは禁錮又は100万円以下の罰金。「危険運転致死傷罪」の場合、致傷に対して15年以下の懲役、致死に対しては1年以上の有期懲役(最高20年、併合加重の場合は最高30年)というのが重いのか軽いのか正直分からない。ただ、殺意を持って行ったわけではないといえ、こればかりはその代償が大きすぎるとのではないかという思いの方が若干強い。

公判中、検察側供述調書から、被害者の母親が「絶対に(最高刑の)懲役25年が下されると確信している。1年でも短い刑になれば、私が犯人を殺します。」と述べたことが朗読された。その心情は理解できるし、おそらく危険運転致死傷罪が適応されようが、(現在の刑法では無理だけど)死刑になろうが、犯人を殺そうが、どうやっても解決しないことなんだろうと思う。

自分の命をかけてまで子供の命を守ろうとした一人の人間が、同時に一人の人間に死んで欲しいと願うという事。人の命というものの本当の価値は、けして平等なんて安易なものではないのだろうけど、この母親の言葉を読んでいるとより一層分からなくなる。

斎戒沐浴

2007/12/07(Fri) Clip

死刑、初の氏名公表 法務省、3人執行と発表 – 朝日新聞

法務省は7日、3人の死刑を執行した、と発表した。法相が執行命令書に署名しなくても執行が進む「死刑の自動化」を提案した鳩山法相の下での初めての執行となった。発表にあたり、同省は初めて、対象となった死刑囚の氏名と犯罪事実、執行場所を公表。「情報公開することで死刑制度に対する国民の理解を得られる」との狙いから、実施の事実だけを伝えて氏名などは一切公表しない従来の方針を転換した。

「斎戒沐浴してサイン」 死刑執行で鳩山法相 – 朝日新聞

鳩山法相は7日昼、衆院法務委員会で、委員からの質問に答える形で死刑を執行したことを明らかにした。そのうえで「国家権力によって人の命を絶つわけで、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して(執行命令書に)サインをさせていただいた。大きな心の痛みを感じるが、法に基づいて粛々と実行しなければいけないということで、逃げることのできない責務と思って執行させていただいた」と話した。

斎戒沐浴(さいかいもくよく)
神仏に祈ったり、神聖な仕事をする前に、飲食や行動を慎み、心身を清めてけがれを取り去ること。

こんな言葉あるのね。今までも執行状況って報道されていたけど、一応マスコミ調べという建前でしたが、公式に発表されることに。僕自身はこの刑自体は賛成なんですが、オフィシャルに執行が公表されるとどうなるのかと考えてみた。

再来年に裁判員制度(まだよく知らないけど)が始まって、普通の人が裁判に参加する事になると、大きい事件では裁判員が死刑(あるいは死刑回避)を求めることも出てくる。その人が死刑と判断し、その通りの判決になった場合、最終的にそれから数年後に死刑執行のニュースが流れる事によって、自分の判断によって人間を一人間接的(と言えるのかどうかは難しいけど)に殺した事が周知されるになる。あるいは死刑回避を主張したが死刑となった場合に、その人的には自分の判断に反して人が殺される事になる。

はたして、その精神的負荷に人は耐えられるのだろうか?理論的には死刑にすべきだと100%納得していても、そればかり考えていられる裁判官ではない市民にとっては、簡単に表現すると「結構しんどい」事だと思う。そうなると、判決が全体的に被告寄りになってしまう気がする。有罪無罪の判断が誤るケースもある程度出てくるだろうけれど、量刑が軽くなるケースは多々発生すると思う。(そもそも、裁判員制度自体が、死刑制度に反対する公明党主導で導入されてたりする。)

死刑制度というより裁判員制度寄りの話になってしまったけど、こればかりは国民性の影響も大きいから、他国の事例が応用できず運用してからのでたとこ勝負になりそう。まだあまり裁判員制度については議論されていないけれど、来年あたりになったら議論が活発になってきてこの辺も話題になるのだろうか。

わたしたちの教科書

2007/09/08(Sat) Book


-あの時、一緒にあたしも死にました。
 お願いします、あたしを死刑にしてください。-

結局本を買って読みました。プロットだけを見るととてもシンプルな話なのですが、様々な登場人物の境遇や心情によって、それがどんどん複雑になっているように感じ、現実も確かにそんな感じだなと思う。生まれた時から、経済状況や家庭環境、身体がフラットになっている人間なんて少なくて、多少なりいろいろな状況を抱えながら生まれ、生きていく。そんな人たちが1億人あつまれば、原理原則の通り行くはずがない。

いじめ問題が主軸になっているのですが、いじめる側が簡単にいじめられる側になったり、その逆もありえて、子供だけじゃなくて社会に出てもそんなのは日常茶飯事な気がします。ただ、子供の頃にそん環境にいるのは結構しんどいし、今の社会は子供がいきなり飛び込むにはなかなかめんどうな世の中で、いろんなノイズが多いようにも思います。その中で大人が出来る事とは何だろうかと、少し考えてしまいました。早くからその現実を直視させる事なのか、それとは違う世界を見せてあげる事なのか。むむん。。。

自分が生きるために。

2007/08/04(Sat) *Pickup, Clip

たかじんのそこまで言って委員会(2006年06月25日放送より)

光市母子殺害事件被告への死刑求刑について、賛成派の死刑を求刑しない場合被害者感情をどうするのか、死刑を認めないなら仇討ちを認めろという問いに対し、反対派の仇討ちを認めると復讐の連鎖になってしまうという文脈の中で。

宮崎哲弥「復讐の連鎖っていうけど、被害者の遺族って言うのは、復讐心じゃないんです。私は本村さん(光市母子殺害事件被害者)からその話は聞きましたけど、何で君をここまで駆り立てているんだと。これはね、自分が有罪だという意識なんだと。つまり、何で妻や子供をあの場所にいて守れなかったんだろうと。」

田嶋陽子「じゃあ何で自分の有罪意識だとして、相手を殺していいの?」

宮崎哲弥「それは購わなきゃいけないんだよ。そうしなければね、本村洋自身が生きていけないんだよ。」

テキストに起こすと伝わらないので、一度動画を見てもらいたいのですが。

人間には、人権という人間自身が己の思考の中で作り上げた権利があると仮定する。仮にそれを手っ取り早く世界人権宣言から持ってくると「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは屈辱的な取扱若しくは刑罰を受けることはない。」という事になる。

確かにその通りだと思う。人には人の命を殺める権利などないと思う。そうだとするならば、汲み取るべき事情がある承諾殺人(人の承諾を得てその人を殺害する=介護疲れによる息子による親の殺害)など一部を除いて、人が人の命を殺めた場合、その人はその時点で人権を行使する権利がないのではないか。

ものを盗んだ場合、そのものか相当するお金でもって償う。そして、抑止の意味も含めて金銭以外の懲役などの罰をもって購わせる。はたして、自分たちが声高らかに主張するもっとも高貴な価値観である人権を侵害された場合、何をもってすれば償いになるのだろうか。それは、その人自身の人権ではないのだろうか。(もちろん、原因の究明は必ず必要という前提で。)

祖父は、天寿を全うしたわけではありませんでした。その時の、怒りでも、恨みでも、悲しみでもない、あえて表現するならば空しさとでもいうべきもの。(なるほど、だからこそ仏教では空という表現を使うのかもしれませんね。)それは、相手方への怒りではない。向こうもしたくてしたのではないだろうし、向こうにも家族や生活があるのだろうし、多少なりとも今まで通りの生活とは行かないのだろうし。本当に、空としか表現できない感情。それが殺人であった場合は、計り知れない。ましてや、若い命であればあるほど。

だからこそ、「そうしなければね、本村洋自身が生きていけないんだよ。」という言葉が僕を揺さぶる。