Posts Tagged ‘経験’

錦繍

2007/12/24(Mon) Book

錦繍 表紙
錦繍
宮本 輝 (著)

実に1ヶ月半ぶりの読書。10月から途端に読む量が月1冊くらいになってしまった。この本も200ページ弱と短めなのだけど、なかなか頭に入ってこなくて3時間くらいかかってしまった。継続して読んでいるときは、そうでないときよりやはり吸収がいいんですかね。この本は、最近知り合った人からのオススメ。これの他にも同じ著者のやつをもう2つ買ってきた。

書簡体(手紙のやりとりの形をとる物語)を読むのは、辻仁成と江國香織の「冷静と情熱の間」以来で、ちょっと新鮮でした。表現が若干単調になってしまうのはそのせいで仕方がないのかなと思ったけど、最後の方ではこの作家の表現の特徴なのかなと感じた。

僕は本には出会うタイミングみたいな物があると思っていて、まだ自分には早すぎて何を言っているのか分からないものもあれば、自分自身の経験からだいぶ立った後にそれを言語化してくれる本と出会う時もあったりして、人との出会いくらい大きなものじゃないかなと、個人的には思っています。

そんな意味で、ちょうど一つ前のエントリに書いたのと同じ「私は最近、私の<いま>は、過去の私によってもたらされていると確かに思えるようになりました。」を見つけたときは、やっぱりそういう出会いみたいな物があるのだなと、少しだけ確信したりしました。

この本で全体を通して書かれているのは、「輪廻転生」や「業」という宗教に近い考え方や、そしてその中を生きている人間自身についてなのかなと感じる。おそらく去年の自分ならこういう話はうさんくさくて途中で読むのをやめてしまったと思うんですが、今年はいろいろあったので、自分の中ですんなりと理解できるような気もしました。

読み終わった後で調べてみたら、この著者の信仰は創価学会のようで、僕は創価学会の教えは知らないけど、前出のことはたぶんその教えと関係しているのかなと勝手に思う。分かりやすいところでは瀬戸内寂聴はじめとして、宗教と文学はよく繋がっているのでさして珍しいことではないのですが、イスラムとかはよく知らないけど、仏教とかキリストとか、どの宗教もみんな同じ事を言っているような気がしてくる。

「知っている」と「分かっている」の違い

2007/12/04(Tue) *Pickup, Diary

サーバーを教えてくれている人と話していて、「知っている」のと「分かっている」のは似ているようでだいぶん違うよねという話になった。発端は技術の話だったのだけど、何にでも言える事だなと思った。

僕が最近一番実感したのは「人は死ぬ」という事。もちろん知っているし、今まで読んだ本や見た映画で死んでいった登場人物はそれこそ千を越える数だろう。ニュースサイトのトップページを開けば必ず1本は誰かが死んだという記事があるし、今日も東京では人身事故があって交通機関が混乱した。

でも、実際に身内が死んでそれに最後まで付きそうと、いろいろ分かる事がある。僕もこのブログで何個かそれについての記事を書いたけれど、それを読んでくれた人だとしても、近しい人が死ぬという経験をしていなかったら、いくら僕の記事を読んでも「分かった」とは違う。僕の言葉がつたないという事もありますが、それは言葉で表現できる事ではないし、だからこそ体験してみないと「分からない」。

とはいえ、この世にあるすべての事を「分かる」には生きられる時間はあまりにも短すぎるし、自分が見えている範囲だけを取ったとしてもそれを分かるには足らないだろうと思う。最近、人は自分が見えている範囲の全てを理解する事は出来ないし、ましてやすべてをフォローしたり助けたり出来るわけではなく、見逃したり見ないふりをしてしまわざるを得ない事がたくさんあって、だからこそやれる事をきちんとやらないと、なと思う。

本というバロメーター

2007/10/15(Mon) Diary

しばらくブログを書く気が起きなかったので書く気が起きるまでほっておこうと思っていたら、あっというまに10日も経ってしまった。正直、なんとなくしっくり来ない日々が続いてる。

いままでは決まった事を確実に、効率的にやるというどちらかというとパッシブな仕事だったけど、今の仕事場は自分から動かないと何も起きないアクティブじゃないと勤まらないという仕事内容の違いへの戸惑いだったり、なんとなく今の職場の空気に馴染まないような感じがする事だったり。たぶんどちらも慣れれば解決しそうな気がするし、いままで結構しっくり来る職場ばかりだったので、一度はこういうところでやるのもいい経験なんじゃないかと思ったり。

本は最近ほとんど読んでない。新しい仕事の時って、本を読む時だけじゃなくて慣れるまでどんな事をしていてもそれが仕事と結びついてしまうので、あまり頭の中に空白が出来ない。しばらくして仕事になれてくると少しずつ空白が出来て本を読む余裕も出てくるので、本を読み始めた時が仕事に慣れた時なのかもしれない。逆に今は本よりも現実からいろいろ吸収しないといけないから、本を読んでいる時ではないのかも。

逆にマンガとかドラマをたくさん見てる。浦沢直樹の「モンスター」とかドラマになった「医龍」の全巻セットをヤフオクで買ったり、某動画サイトで「総理と呼ばないで」とか「HERO」とか「王様のレストラン」とかを全話見たりしてる。本は自分で読まないと進まないけど、マンガやドラマは勝手に進んでくれるから楽なのだ。

中卒になるか、大学まで行くか。

2007/09/21(Fri) Clip

アルファルファモザイクより「中卒になるか、大学まで行くか。」

仕事に対して収入だけを求めるなら、素直に大学まで行った方が楽。どんな仕事にも情熱を持って一生懸命やれるなら中卒でもかまわない。収入だけを求めるわけでもなく、情熱もそんなにないなら、それも大学まで行った方が良い。

基本はその人が何をやりたいかで、そのために大学に行く事が必要なら行った方がいいし、そうでないのならそこにこだわる必要はないんじゃないかと思う。僕は中3から学校行かずにネット系のバイト初めて、仕事しながら通信制の高校を卒業したのでどっちかというと中卒の方を擁護してしまうのですが。以下それが前提として。

人生って不条理なもので、その人が何をやりたいかというのは、いろいろな経験を通じて人生の中盤とか後半に解ってくる事が多い。でも、人生の中の大きな選択というのはたいてい人生の前半にあって、それを分かる前に、自分が何者であるのかを知る前に判断しないといけない。

たとえば、現状は小⇒中⇒高⇒大⇒社会という流れだけれど、18才で高校までを義務化し、19才から29才までの10年間に働きながら自分の特性を知り、それを深めるために30才から5年間会社を辞めて大学に通い、改めて35才からまた働くという仕組みが社会的に認められていたらいいのにと、僕は思う。

今のところ高卒が原因で何かを断念したような事はないけれど、大卒なら得られたであろうチャンスを逃してる事はあるんだろうと思うし、それは僕からは見えない事なんだろうと思う。でも代わりに得たものもあるわけで、僕は今のところ得られた事の方が多いけれど、まだ先は長いんだからこれから先もそう思えるかは分からない。そう思いたいとは思っていますが。

隠された風景

2007/09/02(Sun) *Pickup, Book

隠された風景 表紙
隠された風景
死の現場を歩く
福岡 賢正 (著)

-無数の「死」があるからこそ我々の「生」がある。
 そして人が自らの「生」を実感するのは、
  他者の「死」にふれた時である。

 その「死」と生活の場で身近にふれることができなくなったことが、
  「生」をかけがえのないものとして慈しむ契機を
   人々から奪ってしまったのではないか。-

僕のブログはよく「暗い」といわれる。本人としては、静かに、普段あまり考えることのないそういう暗いとされているものをきちんと見つめることは大切だと思っていて、しかもそんなことを普段の生活の中で真面目に考えることはないのでブログで書いているのだけど、そんな事をしていると暗いと言われるのかもしれません。特に最近は祖父の死が会ってから、死や宗教といったものについて書くことが多いので、なおさらそう見えるのかもしれません。

普段一日中パソコンに向かって仕事をしていると、「生きている」と思うことはほとんどない。そんな僕が、祖父の「死」と触れることで、「生」を感じ、考えることが出来た。その経験や、最近考えたことが一つに繋がったのがこの「隠された風景」という本で、「野犬などのペットを殺す動物処分」、「牛や豚などの屠畜」、「人間の自殺」という普段の生活からは「隠された風景」に焦点を当てた本でした。

命は大切だ。犬や猫などのペットも、牛や豚などの家畜も、人間の命と大切さはなにも変わらない。その考えの基に動物愛護を訴え、保健所が動物を殺すことや、屠殺することを非難する人たちがいる。僕はどちらかというと、命が大切と言うところまでは同意するけれど、生きる上で必要な悪だと、この本を読むまでは思っていました。それは、ただ真剣に考えたことがなかったから。著者はその様子を下記のように示す。

つまり、日々動物の肉を食しながら、「動物を殺すことは残酷でいけないことだ」と考え、その仕事をしている人たちに白い目を向ける。そんな漫画のようなことが今もまかり通っているのである。その傾向は「動物好き」を自認する人たちにことさら強い。肉を食べるものが、家畜を育てたり、屠畜して肉をつくる者から完全に分離されていて、そこから目をそらすことができ、いのちをもらう事に伴う心の痛みを感じなくてすむ仕組みになっていることが、その劇画化された構図を支えている。

小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないと言って平気で食べ物を捨てると言うことが、わたしには納得いかないのだ。わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、何の迷いもなく同居していることがおそろしくてならない。

この本を読むのはしんどい。今まで目を背けてきた部分だから。でもしっかり読んでいくと、今まで見ていなかった所を直視すると、見えてくる風景がある。

(屠殺を経験した小学生の感想文)
私は、ころされた豚を見てなきました。でも、できあがった肉は、ないたことなんか、すっかりわすれて食べていました。私がないたのは、見せかけだけのなき方だったと思います。もし本当にないていたら、肉なんか見る気にもなれなかったと思います。私は、あの時、なぜないたかふしぎです。かわいそうでないたのか、それとも、自分をやさしくみせかけようとしてないたのかもしれません。

そして著者が提示した一つの答え。僕はそれに、共感すると言うよりも、納得をする。そうやって僕らは生きているし、それを手助けするために宗教があったりする。そして、僕が「死」に触れて「生」を感じたことも、とても自然なことだったのではないかと、今は思う。

人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。

我々は「死」を身の回りから遠ざけてきたのと同様に、「死」を「生」に変える土を「汚いもの」として疎んじ、土から離れた生活を追い求めてきた。それは我々が「いのち」の循環性に目を向けず、一回限りの「自我の生」のみにこだわった文明を育ててきたということを物語っている。

「いただきます」とは「命をいただきます」なのだ。
一度読んでみて欲しい。ただそれだけ。

人柱

2007/08/30(Thu) *Pickup, Clip

原発がどんなものか知ってほしい

原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。

ちょっと長い文章ですが、時間を割いて読む価値はあるかと。僕自身は、原発は危険な物だと思うけど、人間が自重するか、それが出来ない場合で尚かつ代替策がないなら「しょうがない」と消去法的に肯定している。人間が未来永劫自重することはあり得ないと思っているので。代替えも、あるのでしょうか?そこは僕はあまり知識がありません。

原発は、どう考えても危険。安全だというなら、東京電力の社長室の隣に、文部科学省の隣に、国会の隣に原発を造ってそれを証明することができるだろうか?彼らは絶対に造る事ができない。そして福井や福島、新潟に造る。(国会の隣に作れば、首都機能移転問題は簡単に解決しそう。)

彼らは、地域振興になっているという。電源立地地域対策交付金や、関連産業・雇用などで、地域が潤っているという。潤っていると言えば聞こえがいいけれど、昨年度の福井県の県税収入1,041億のうち13%の137億が原発関連で、敦賀市職員の人件費53億のうち13%の7億が前述の電源立地地域対策交付金でまかなわれていて、振興の域を超えた、もう亡くす事が出来ない麻薬のようになっているのではないだろうか。(もちろん福井も悪い)。

何がうれしくて、中越地震の時、柏崎は地元が停電しているのに、地元の原発で東京に電気を送ったのだろうか。福井で生まれて、東京で働いていると、なんとも複雑。原発は、現代の人柱なのだろうか。なんだか共食いをしているような心境に陥る。

Re:原発がどんなものか知ってほしい

必要があって今ある。それは確かに自分が生まれる前から自分の知らないうちに造られたものかもしれません。でも当時それらを動かし始めた人たちは少なからず未来の為に、恐らくは当時子供であり、今は大人になった我々の生きる時代の為にと思って原子力発電を始めた部分もあると、私は思います。

そして、現在、実際にそれに支えられている現実がある。

「原発がどんなものか知ってほしい」に対する検証・反論をまとめたページ。この記事の他にも原子力に関するFAQなどかなり知らなかったことを知ることが出来る。原文は挑戦的なので、僕が読んでいても大げさな表現が多い(事実関係の誤りなどはわかりませんでしたが)。そして、結果的に反原発思想によって支えられた文章になっている。「Re」の文章は、ただ反論しているのではなく、理想と現実を見極めて、現状可能な手段で後生にバトンをつないでいこうという意志を持った文章に読めた。

ただ、所々「Re」にも脆弱な部分が見え隠れする。JCO事故の件を、想定していなかった出来事だと定義しているけれど、他の事案と違ってそういうケースが発生した時のリスクが極めて高いと言うこと。麦茶と間違えてそばつゆを飲んだのとは訳が違う。

「アメリカで原子力発電が再開されるように、現実にこの世界を支える為に、まだ原子力は必要なエネルギーだと思います。だから続けるんです。」と「Re」の著者は語る。リスクは高いが唯一の選択肢である原子力というものをきちんと人間の制御下に置き利用しようという意志が強く感じられ、現に僕は彼らに支えられて、彼らの造った原発からの電力でこの文章を書いている。

最初の僕の文章では、そういった現実的視点からの消去法的肯定論者であるということ、そのリスクを福井や福島や柏崎などの地方が偏って負担し、補助金によって抜け出したくても抜け出せなくなっている状況を、釈然としなくても受け入れなくてはいけない、リスクを負っている福井生まれの、そしてその恩恵を受けている東京在住の一人として書たつもり。

僕は数年か数十年後か分からないけれど、福井に帰りたいと思っている。僕は、原発が安全に運用されることを望むし、それを運用している人たちに感謝こそせよ反感は持たないけれど、心のどこかで納得しきってはいないのだ。

鳥はみずからの力だけでは飛べない

2007/08/25(Sat) Book

鳥はみずからの力だけでは飛べない 表紙
鳥はみずからの力だけでは飛べない
田口 ランディ (著)

-一穂のお母さんはね、どうやら一穂のことを理解して、
  受け入れなくてはいけないと思いこんでいるようだ。

 それができない自分はダメな母親だと感じるらしい。-

田口ランディが、不登校になった友人の息子に向けて書いた10通の手紙。という本なのだけど、それがただの「設定」なのか、ホントに送った手紙なのか、ネットで調べてみたがよく分からなかった。でもどうでも良くなって、ふと気づくと、元不登校だった自分に戻って、まるで自分に送られてきた手紙のように読みました。

本の中では、田口ランディが、不登校児の一穂の状況や心境について、自分自身の経験(実兄が引きこもって餓死している)の中から少しでも察しようとして、様々な手紙を送る。それは、僕自身の経験に照らし合わせても、その頃思っていたことを言葉にしたらこうなるのだろう、という納得できるものだった。

しかし、田口ランディは社会への参画を求める。自分自身も社会の中で生きていて、それはとても居心地の悪いものだけど、だけれどこっちへ来い、と話す。方や、一穂の母親は冒頭の引用句のように、一穂のありのままを認めようとして良くも悪くもそのままで良いと言い、田口ランディとぶつかる。田口ランディは、自分が経験したことがないことだからと言って強引に理解してしまうのではなく、長い時間をかけて子供と向き合えと母親に諭す。

確かに僕自身も、不登校が決して悪いことではないと思うけれど、不登校になることを推奨したり、不登校の人にそのままでいいよ、とは思わない。ただの反抗期のようにも思うが、単にそれだけでもないと思う。僕の場合は、当たり前にあるいろんな仕組みや慣例に、別に従わなくてもいいじゃないかと疑ってかかったという面もあったように思う。

ただ、いったんそれをしてしまうと、足場を失いとても不安定になる。他者と同じルールで行くことを否定したなら、自由度の代わりに安定性を大きく失う。僕はそれを、とても不器用な生き方だと思うが、それでしか生きられないとも思う。翻って、普通に学校に通って大学に行った人からも、不器用な生き方で、自分はそういう生き方しかできない、という言葉を聞くことがたまにある。不登校も、単なるそういう不器用な生き方の一つなんだろうか、と今は思う。

秒速5センチメートル

2007/08/11(Sat) Movie

秒速5センチメートル ジャケット
秒速5センチメートル
出演: 水橋研二, 近藤好美 監督: 新海誠

たとえばトトロとか魔女の宅急便とか、だれもが一度は経験したことのある田舎の情景や感情を引き出されるので広く支持されるものもあれば、ある特定の経験をしていないと理解されにくい物語もある。この映画は後者で、僕は少しは共感できたつもり。

ブラックジャックによろしく ガン医療編(再読)

2007/08/11(Sat) Book

ブラックジャックによろしく ガン医療編 表紙
ブラックジャックによろしく (5)
佐藤 秀峰 (著), 長屋 憲 (著)

-生と向き合う事は、
 死と向き合う事と同じ事ではありませんか?-

既に一度読んだマンガです。ドラマ版も見ました。マンガでも小説でも、本を読む時、その物語はその本の中で文字列として展開されるのではなく、読んでいる人の心の中で展開されるものだと思います。

そこに書かれている文字から、読む人それぞれにその物語の中の登場人物が描かれ、それにはその人のそれまでの記憶や気持ちの中からイメージされるため、本に書かれた物語と、読者一人一人の中で展開される物語には微妙にズレがあると思います。

故に、一度読んだ物語でも、その後にいろいろな経験をして、またふとその物語を読んでみると、全く違った物語が展開されます。いや、その後の経験から、その本がその人をまた呼び寄せるのかもしれません。以前この本を読んだ時は、日本の医療の矛盾や、それを突き破ろうとする医師達の物語として読んだ自分がいました。

今日読んでみると、その本はたしかに以前読んだ本と同じものであるのに、一人の患者がいかに死と向き合い、生きていくのかが描かれた本になっていました。妻が死ぬことを知った夫や、お母さんが死ぬと告げられた10代の子供の、そして、貴方の人生はこれで終わりですとあらかじめ告げられた一人の女性が、いかにして生きて死ぬのかが描かれた本になっていました。

新潟県中越沖地震

2007/07/16(Mon) *Pickup, Diary

このブログは自分が思っているよりたくさんの人が読んでくれているので、主に東京に来てから知り合った人のために少し前置きをすると、僕は前職の仕事で、柏崎に2002年12月から2004年3月まで約15ヶ月ほど住んでいたことがあります。このブログを始めたのも柏崎にいる時で、いい仕事をさせてもらったし、いい人達にも出会うことが出来ました。幸い僕が住んでいる時は平穏だったのですが、僕が石川に引っ越して4ヶ月後の2004年の7月には豪雨同じ年の10月には中越大震災(その日のiwalog)、2005年には豪雪と、何かと大変な事が続いてきました。

朝からぼけっと本を読んでいたら、東京でも少し、そしてちょっとだけ長い間揺れを感じました。サイトに表示された震度分布が、中越地震の時のそれと似たような規模と震源地だったので、もの凄く嫌な予感がして、でもそれ以外情報は得られず、気持ちの悪い不安な時間を過ごす。

地震発生直後の震度

メールで連絡を取ってみたら幸い僕の知っている人たちはみんな無事だった。でも何名かは亡くなっているというニュースも入ってくる。続々とアップされるニュースサイトの写真を見ていると、何十回も降り立った駅で電車が脱線していたり、何十回も通った路線が土砂崩れで埋もれていたり、高速が隆起していたり、みているのがつらい。

脱線した電車崩れた崖と土砂に埋もれた線路

幸か不幸か選挙戦の最中ということもあり、外から見ている分には対応は素早かったように思う。演説するよりはるかに訴求力の高い選挙活動だからねという皮肉もありますが、とりあえず迅速に対応してくれれば何でもいいです。一概に比較できることではないですが、何度も天災を経験しているからか、被害も少なかったように思うのがせめてもの幸い。関係ないことと思って東京でこのブログを読んでいるあなた。あなたが東京でこのサイトを見るために消費されている電気の10%は、柏崎の原発でまかなわれているのですよ。次は我が身です。

こういう時はもうなにもできないのが少しもどかしいですが、自分達の作ったサイトが少しは役立っているのを見ると、保守・改良を続けてくれている某氏達に感謝するのはもちろん、ユーザビリティなんとかで1位をもらった時よりもはるかに、自分たちのやったことが少しは人のために役立てているのではないかと感じられました。停電が続いてる所もあるようですが、一日も早い回復を願います。