Posts Tagged ‘人生’

3年後の自分へ。

2009/08/15(Sat) Diary

iwalogを書き始めてから、丸6年になりました。26年間しか生きていない僕の6年間、僕の人生の10分の2が、ここに記録されています(最近あんまりこの比率が変化しませんが…)。一つ前のエントリで書いたりもしたけれど、数年前から自分以外のことを考える時間が増え始めてきて、必然的に多くの時間を割いている仕事のスタイルや時間の使い方について考えを巡らす事が多くなってきました。

それは、仕事をする時間を減らしたいとかそういうことではなくて、どちらかというと今でも時間が許すならずっとネットの中を漂っていたい人なのですが、それ以外のことに割かれる時間や、ネットに時間を割けてもストレートに実務につながる事しか見れなくなっているので、もっとネット=仕事に割く時間を増やしたいなという事。そのために、自分自身の時間の使い方であったり、働き方を考える時が多くなったということ。

これまでの自分の人生の中では、なんとなく26歳が一つの節目(26歳。)だったのですが、今では30歳が次の節目なのかなと考えるようになりました。それまで、あと3年。3年たったら29.5歳。それまでに目処が付いていなければたぶん無理でしょうな。体感時間がどんどん短くなってきている中での3年はとても早い。

とはいえ、今はその形さえ模索している状況。できれば、この3年間は今の会社での勉強に当てたいと思っていたんだけれども、実務に追われるばかりで、自分自身はあまり進歩がない。今の会社という環境を、うまく活かせていない気がする。もっと自分の事だけ考えていい時期なんじゃないかと思いつつ、そうなったら会社からは求められない気もするし。さて、3年後の自分は今の僕をどう見ているのだろうか。

look forward

2009/05/17(Sun) Diary

今週東京出張の時に、福井信蔵さんとお会いすることが出来た。古くはWDMLで初めて知って、その後bAを設立され、今はShinzo Graphica & Associatesとして独立されている。僕がDP2を買おうと思ったサイトの写真も信蔵さんが撮ってた。

二人で飲んだときの会話の内容はなんともブログでは書きにくいことが多いのだけれど、そこから感じた事を少し。結局の所、自分がやっている仕事を信じて、コミットして、どれだけリスクを背負って本気でやれるのかということだという結論に。場数を踏んで、他の人の仕事もたくさん見て、どれだけ試行錯誤を続けられるか。

信蔵さんは東京で、僕は今福井で、環境や条件は当然いろいろと違うのだけれど、一つのクライアントにリスクを負ってコミットしていくという所など福井の方がやりやすいのではないかと感じる事もあった。逆に場数は東京に比べて圧倒的に少ないのだけれど、それはやり方次第だろうと思う。

いろいろ教わってばかりで何かをお返しできたかは全然自信がないけれど、たくさん刺激をもらった、なんて締めくくりにはせず、今回初めて知ったことや、新たに浮かんだ疑問、クリアになった自分の足りないところとかを、日々の仕事とこれからの長い人生の中にきちんと反映していく事でお返しできたらなと思う。ありがとうございました。

shinzlog – Clips: look forward

そういう意味で、健全な上昇志向をもっている人には、僕が知っていることや、経験してきたことを、教えたり話すことを、これからも続けていくと思います。そして、それによって知らないことを逆に教えられる、という自分の学習を続けたいと思います。でも、僕は自分が学ぶので精一杯です。僕には、健全ではない上昇志向を基に、デザインを利用しつつデザインの力を馬鹿にするような意識の人に「そうではないんだ」という事を説いていくほどの余裕はありません。それよりも、「もっと良いものを。もっと先へ。もっと役にたつものを。」と思っている人たちと、デザインというものを考えて行く時間を大切にしたいと思います。よろしくお願いします。

生きるために学んだ

2009/03/23(Mon) Clip

生きるために学んだ「余命5年」57歳女性、関大卒業 – 朝日新聞

難病の原発性肺高血圧症、肝硬変、髄膜腫を患い、余命宣告されたのは00年春。主治医は服部さんに「5年くらいかな」と言ったが、夫には「長くて3年」と伝えた。

人生が残り少ないと覚悟したとき、思い立ったのは、父の病気と家計への気兼ねであきらめた高校進学だった。通信制高校に入り、05年に関大文学部をAO入試で受験。面接で志望理由を聞かれ、「生きるため」と答えた。

生きることは学ぶこと、学ぶことは生きること、なのかな。最近、学ばなくなるということは社会性という観点から見るとの人間の死ではないかと考えることがあったので、人生の終わりに改めて学びの道に入ったこの人の生き方はとても美しいと感じた。

螺旋の道

2008/12/09(Tue) Diary

「世代」というくくりで物事を考えることはあまり好きではなかったんですが、最近ひしひしとそういうものを感じる。辞書では約30年を1世代と数えると記されていたけれど、現実は10年程度で社会をどうとらえるか、社会の中の自分をどうとらえるか、という平たくいえば価値観が変わっているように思う。

以前からぼやっと感じていたことが年金に関する議論を眺めていた時に明確になった。例えば今、5歳の子供と、25歳の僕と、45歳の社会人という3人がいた時に、この3人は同じ2008年という時代を生きているけれども、違う時代を生きているのだという事に気づいた。それは人生をスタートしてからの時間の違いであり、積み上げてきたものの違いであり、残りの時間の違い。

5歳の子供は社会というものをまだ認識していないかもしれない。25歳の僕はこれから自分と社会が共に楽しんで生きていける折り合いがどこにあるのかを探しているのかもしれない。45歳の社会人は自分としての芯が定まり子供も自立してさあどう自分の終演に向かっていこうかと考えているのかもしれない。

その3人の前に同じ問題と選択肢が提示されたときに3人が選ぶ答えは、思想信条や環境が同じであっても、同時代性を保持していたとしても、自ずと異なる事が自然なのではないかと思う。そしてそれはどれも正しいし、どれも間違っていないように思う。何か意見の相違があったときに、それを闇雲に時代や世代のせいにはしたくないけれども、その人達が見ているゴールまでの距離が違う以上、必然なのではないかとも思う。

数世代単位でみた人間の長期的変化が螺旋的変化であるとするならば、同じ轍を踏んでいるように見えることでも世代という要素によって微妙に異なるものであろう。おそらく人間は基本的には1世代単位でリセットされていて、どんなに歴史や技術の積み重ねがあったとしても同じ事を繰り返さないと理解しないのではないか。

螺旋の道は、4〜5世代程度で同じ位置に戻るというのが個人的な感触。達観でも諦観でもなくその流れであることを見極めて、仮に自分より後に生きる人たちを見て「同じ轍を踏もうとしている」と感じても「再度挑戦している」と捉えられるようになりたいし、何か言葉を求められたらその観点での言葉を返したい。それはもうほとんど、希望というような境地であるのだけれど。

どうしたら私たち二人の望みをかなえられるだろう?

2008/12/04(Thu) Diary

useless

「相手の気持ちを考える」という行為は、一種の想像力です。その時に、「あの人と、私の望みが違ったらどうしよう…」「どちらかをあきらめなければいけない…」「私が無理をしなきゃいけないのかな…」と葛藤して考えるか、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えるのかで、人生が大きく変わります。

葛藤を感じたとき、我慢しないために自分を押し通すのでもなく、罪悪感を感じたくないがために他人に譲るのでもなく、「どうしたら、私たち、二人の望みをかなえられるだろう?」と考えてみてください。今日から両方が満足する方法を考えるクセをつけてみてください。

ここ最近ずっと考えているんですが、その中で達した結論を表すとこういう事だと思う。いろいろな枠組みを外して、僕とあなたという個人間の繋がりだけに絞ってものごとをとらえ直してみたときに、ふとお互いがハッピーになる現実的な可能性が一番高いと思える答えが浮かんできた。

きっと相手はそれを望まないだろうし、嫌われるのかもしれないし、可能性が高いと考えているだけで実際どうなるかはやってみないと分からないんだけれど、小さな脳みそと狭くなりがちな視野を精一杯広げて考えてそう思った。

告知せず

2008/11/17(Mon) Movie

夫「死ぬ準備をして待てって言うんですか。死ぬ日を、指折り数えて待てって言うんですか。あんたそれでも医者かよ。」

妻「もうやめて。先生に当たったってしょうがないじゃない。人間は誰でも、いつかは死ぬの。それが早いか遅いかってだけ。訳の分からないまま死んでいく人だっているのよ。でもあなたは違うわ。自分は何の病気で、何と戦えばいいのかちゃんと分かってるの。他の病院で見てもらいたいなら、そうしましょう。納得いくまで、ちゃんと付き合うから。あなたの思うとおりにすればいいじゃない。だから、ちゃんと戦いましょう。最後の最後まで、ちゃんと生きましょう。」

テレビ朝日で放送されたがん告知のドラマ。たまたまがんの緩和ケアについての本を読んだばかりだったので見たんだけど、号泣。ドラマ自体の話でいうと、滝沢秀明がちょっと浮いていて山田孝之とかの方がいいんじゃないかと思った。がんを患った高畑淳子が亡くなるシーンでも、なんで息子役の滝沢より見ている僕の方がわんわん泣いているんだ、とどうでもいいことを思った。

冒頭に引用したのは、自分の妻には告知せず自分の患者にがん告知をした渡哲也に対して怒りをぶつけた夫に、妻の高島礼子が語った言葉。その後、「先生、告知して良かったです。」と続く。人はいつか死ぬんだと開き直って、残りの人生を精一杯生きようというような考え方で、告知された大多数の人はそういう道を辿るのではないかと思ったりする。

それはたぶん端から見ると一番手っ取り早いプロセスに感じるんだけれど。ここからは完全に想像だけれど、人間は、年を取れば取るほど欲が増していく生き物なんじゃないかと思う。不老不死を願うわけではなく、子供の成長を見たい、孫の成長を見たい、出来うるなら可能な限り、それを見届けたい、という欲が大きくなっていった時期に、いきなり「残りの人生を精一杯生きる」という考え方に転換するのはかなりしんどいことなんじゃないかと、勝手に想像する。

自分はと言うと、ガンになったら告知されて何で死ぬのかをハッキリと認識して、そのプロセスを出来うるかぎりこのブログでも何でもに書き残していきたいし、自分に近しい人がそうなったとしても告知してしまいたいと思う。だけどそれは、自分一人だけではそういう重いものを抱えきれない事への逃げから来ている答えだと思うので、正直まだ分からない。

さまよう刀

2008/09/14(Sun) Book

さまよう刀 表紙
さまよう刃
東野 圭吾 (著)

「女房によると、千晶は死ぬ前にシャワーを浴びたようです」

「シャワー?」

「ええ。後からわかったらしいんですが、そういう形跡があったそうなんです。夜中にシャワーを浴びて、下着も新しいものに取り替えていたそうです。そのことを女房は、私にもずっと黙っていたみたいです。だから、その、どういうことがあったのか、女房はうすうす感づいていたんじゃないかと思うんですがね」

一人の女の子がレイプされ殺害される。その父は、何者かの密告によって犯人のヒントを得る。犯人は未成年、警察に連絡して逮捕されても、少年法に守られ数年で娑婆に出てくる流れが容易に想像できる。それならばいっそ自らの手で。という話。

物語を盛り上げるためか、犯人の少年は鬼畜として描かれ、犯人を追う被害者の父親は殺してやりたいという感情と理性との間で激しく揺れ動く。物語としては十分スリリングで一気に読んだのだが、途中から作者がこの問題にどういった結論を付けるのかがずっと気になっていた。

それを書いてしまうと面白さが半減するので書かないけれど、自分なりに感じたところとしては、本の中である登場人物も言っているけれど、刑法自体の不完全さと、警察はその不完全な刑法に遵守した社会を保つ組織であって、厳密異な意味で市民の安全を守っているわけではないのだなという事。

自分でも結論が出ない事のひとつが、「そもそも加害者を更正させる必要があるのか」という点。実際に更正するかしないかは関係なく、そもそも殺人などの重大事件を犯した人間に、更正させる機会そのものを与える意味があるのかと言う事。現状、被害者はその後の人生全てを奪われるが、加害者は必ずしもそうではない。

人権やその人にとってのその後の人生などよく言われる理屈はすべて加害者にも言えるが被害者にも言える。現状のように殺されるリスク(全てが終わり)よりも殺すリスクが低い(社会復帰可能)社会だと、殺したもの勝ちになって、社会システムとしてバランスがおかしいように思うのだけれど。そこさえ解決できれば少年法の問題も刑法第39条(心神喪失者の行為は罰しない)も解決できるように思うが。解決というか、大多数が納得できる案と言うか。

人はなぜ宗教を必要とするのか

2008/08/26(Tue) Book

人はなぜ宗教を必要とするのか 表紙
人はなぜ宗教を必要とするのか
阿満 利麿 (著)

宗教はインチキだ、という反応は、しばしば宗教に対して食わず嫌いになりがちです。宗教、とりわけ「創唱宗教(引用者注:キリストなどの特定の神を定めている宗教)」は、人類が培ってきた大切な叡智だといってよいでしょう。その叡智と無縁に生涯を終わるのはいかにも残念だ、というのが私の思いなのです。

先日読んだ本と同じ著者で、前作と対をなすような位置づけらしい。前回と同じく、読む前に自分が感じていたところと大筋は同じ主張で、それの裏付けとなる歴史的な背景や著名な宗教家の言葉を引きながら書かれていた。

「生老病死」という言葉があって、生まれること、老いること、病に伏せること、死を迎える事というのは、人間がその人生において逃れることが出来ない四つの苦悩という意味らしい。生はよく分からないし、老いはまだ経験しておらず、それほどの病に伏せったこともないが、死が苦況だというのはここ数年の近しい人の死でなんとなく理解できる。

個人的に、宗教は「よくできたフィクション」だと思っている。なので、神とか仏とかそういうのがいるとは全く思っておらず、むしろ嘘だと思っている。でも、嘘と分かった上で積極的に肯定している。人類が誕生したときから存在しており、何世紀にもわたって廃れることなく受け継がれている「よくできた物語」だと。

自分の死は分からないが、身近な人の死というのは結構こたえる。虚無感は時が過ぎれば薄らぐが、ほおっておいて完全に消えてなくなるというものではないと思う。おそらく、老いや、自分の力ではどうしようもない病なども、同じ性格のものだろうと思う。だけど、自分ではそういうことを経験するのは初めてかもしれないけれど、人類は過去ずっとそういう事を経験してきていて、それを解消するために編み出されたのが「宗教」だと思う。

誤解を恐れずに書けば、「生老病死」にぶち当たったときに、手っ取り早くそれを解消してくれるのが「宗教」だということ。僕の場合は、祖父が亡くなったときに「現代語訳 般若心経」という本を手に取り、「『生まれた』という認識も『滅した』という認識もありのままの実相ではなく、じつは脳内に現象した大雑把な『概念』に過ぎません。解けないほどに絡み合った関係性を、とりあえず無視してザックリ切った認識と見るしかないのです。」という一文に出会い、自分の中で何かがストンと腑に落ちた。

なので、おそらく、病だとか、うまくいかないこととか、そういうことで宗教を頼ったりはしないだろうし、自分以外の誰かにそれを押しつけることもしない。あくまで自分が生きていくときに糧となる「人類が残した精神の文化遺産」であって、それを使わせてもらっている。という位置づけ。だから「生老病死」という壁にぶち当たるまでは必要性を感じないだろうし、必要としない人もいるかもしれない。

ただ、「生老病死」の時だけ頼るにはもったいないほどの生きる上でのヒントが書かれているので、著者と同じく食わず嫌いするのはもったいないなぁと思う。そういう感じなので、そういうまっとうな宗教の部分と、政治介入している某教団のようなものがおなじ「宗教」というくくりになってしまっているのはとても残念だと思う。

5年間が詰まった1,000件のエントリ

2008/08/15(Fri) *Pickup, Diary

iwalogを書き始めてから、丸5年になりました。25年間しか生きていない僕の5年間、僕の人生の10分の2が、ここに記録されています。そして、このエントリで、iwalogのエントリが1,000件になりました。まあ、よくも飽きずに書いたものです。これだけ続いたのなら、今後も僕が生きている限り続くだろうと思っているのですが、そのときネットはどうなってるんだろう。ブログなんて、古いサービスの一つになっているのかな。

相変わらず一つの所に定住しない僕の性格は今年もそのままで、今年は東京から福井に。しかし、さすがに福井に来たからには、来年また別の所に住んでいるってことはないだろう、と自分では思っているのですが、仙台とか福岡にも若干興味があったりします。まあ、これは自分で書いていてもないだろうなと思うけど、どうなるかはわからない。

よく、若いときはいろんな経験をしろ、いろんな所に行ったり、いろんな遊びをしたり、いろんな人と出会ったりしろみたいなことを言われますが。僕は自他共に認めるほどネットしかやってきていない。ネットというとインドアなのであんまり健全なふうには見られないことの方が多いのですが、前述の言葉の意味が好きなことを思いっきりしろという意味なら僕は間違いなくしているので、このままでいいのだ、と開き直り始めた。

いい年して、いまだに「仕事」をする、という意識が持てない。中学生の時に趣味でパソコンをいじっていた時と同じ気持ちで、コードを書いたり、ディレクションをしたり、クライアントの所に行ったりしている。今年で仕事を始めて丸8年、9年目に突入しますが、好きなことをして遊んでいるという意識しか持てない。いいのか悪いのか分からないけど、とりあえずこのままいけるところまで走っていってみようかなと思う。

これまで読んでくれている方、ありがとうございます。今後も駄文が続きますが、よければお付き合いください。

タモリさんの弔辞

2008/08/07(Thu) Clip

個人的には、「医者から酒をやめろって言われたよ」と酒を飲みながら話していたおじさん、という程度の認識しかないのですが、産経新聞で読んだ弔辞の全文と、YouTubeにあがっていたタモリさんの語り口を聞いて、二人の関係が目に浮かぶようなこの言葉に少し感動した。

きっと彼は、この弔辞を読んだ後、いつものように笑っていいともで馬鹿話をして笑っていたのだろう。大げさかもしれないけれど、「これでいいのだ」とは、「色即是空」という事なのかもしれん。

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