Posts Tagged ‘宗教’

人はなぜ宗教を必要とするのか

2008/08/26(Tue) Book

人はなぜ宗教を必要とするのか 表紙
人はなぜ宗教を必要とするのか
阿満 利麿 (著)

宗教はインチキだ、という反応は、しばしば宗教に対して食わず嫌いになりがちです。宗教、とりわけ「創唱宗教(引用者注:キリストなどの特定の神を定めている宗教)」は、人類が培ってきた大切な叡智だといってよいでしょう。その叡智と無縁に生涯を終わるのはいかにも残念だ、というのが私の思いなのです。

先日読んだ本と同じ著者で、前作と対をなすような位置づけらしい。前回と同じく、読む前に自分が感じていたところと大筋は同じ主張で、それの裏付けとなる歴史的な背景や著名な宗教家の言葉を引きながら書かれていた。

「生老病死」という言葉があって、生まれること、老いること、病に伏せること、死を迎える事というのは、人間がその人生において逃れることが出来ない四つの苦悩という意味らしい。生はよく分からないし、老いはまだ経験しておらず、それほどの病に伏せったこともないが、死が苦況だというのはここ数年の近しい人の死でなんとなく理解できる。

個人的に、宗教は「よくできたフィクション」だと思っている。なので、神とか仏とかそういうのがいるとは全く思っておらず、むしろ嘘だと思っている。でも、嘘と分かった上で積極的に肯定している。人類が誕生したときから存在しており、何世紀にもわたって廃れることなく受け継がれている「よくできた物語」だと。

自分の死は分からないが、身近な人の死というのは結構こたえる。虚無感は時が過ぎれば薄らぐが、ほおっておいて完全に消えてなくなるというものではないと思う。おそらく、老いや、自分の力ではどうしようもない病なども、同じ性格のものだろうと思う。だけど、自分ではそういうことを経験するのは初めてかもしれないけれど、人類は過去ずっとそういう事を経験してきていて、それを解消するために編み出されたのが「宗教」だと思う。

誤解を恐れずに書けば、「生老病死」にぶち当たったときに、手っ取り早くそれを解消してくれるのが「宗教」だということ。僕の場合は、祖父が亡くなったときに「現代語訳 般若心経」という本を手に取り、「『生まれた』という認識も『滅した』という認識もありのままの実相ではなく、じつは脳内に現象した大雑把な『概念』に過ぎません。解けないほどに絡み合った関係性を、とりあえず無視してザックリ切った認識と見るしかないのです。」という一文に出会い、自分の中で何かがストンと腑に落ちた。

なので、おそらく、病だとか、うまくいかないこととか、そういうことで宗教を頼ったりはしないだろうし、自分以外の誰かにそれを押しつけることもしない。あくまで自分が生きていくときに糧となる「人類が残した精神の文化遺産」であって、それを使わせてもらっている。という位置づけ。だから「生老病死」という壁にぶち当たるまでは必要性を感じないだろうし、必要としない人もいるかもしれない。

ただ、「生老病死」の時だけ頼るにはもったいないほどの生きる上でのヒントが書かれているので、著者と同じく食わず嫌いするのはもったいないなぁと思う。そういう感じなので、そういうまっとうな宗教の部分と、政治介入している某教団のようなものがおなじ「宗教」というくくりになってしまっているのはとても残念だと思う。

日本人はなぜ無宗教なのか

2008/08/24(Sun) Book

日本人はなぜ無宗教なのか 表紙
日本人はなぜ無宗教なのか
阿満 利麿 (著)

このように見てくると、読者の多くも、自分たちが「自然宗教」の「信者」であることには反対されないであろう。さらにいえば、初詣やお盆、春秋の彼岸はいづれも重要な年中行事であることからも分かるように、日本人は年々歳々同じ行事を繰り返しながら、いつしかしか「自然宗教」に同化されているとも言える。

「自分は無宗教だ」という人が結構いるが、そういう人は「日本教(本書で言う自然宗教)」とでもいうようなものを信じてるんじゃないか、と思っている。元々は神道、仏教というきちんとしたものが長い歴史の中で一般化、混在化する経過を経て「宗教」から「習慣」になっただけで、大多数の日本人が盆に墓参りをしたり死んだら葬式をして、という宗教行為をやってるじゃん、と。

なぜそうなったかといえば、多くの日本人が仏教やキリスト教のような「宗教」と、オウム真理教や足の裏なんとかのような「カルト」をひとまとめにして捕らえてしまったために、「宗教」という言葉に対してネガティブなイメージを持っているからではないか。戦争も関係しているのかもしれない。

という仮説をもって読んだ本なのだけど、おおむねおなじような事が書いてあった。「習慣」化については、自治体が行う地鎮祭が政教分離に反するのではないかという裁判で「社会の一般的習慣に従った儀礼は宗教行事ではない」という判例が出ているらしく、社会全体として習慣化した宗教は宗教ではない、という認識なのだろう。

そうなった経緯については、かなり細かく歴史的な経緯が書いてあるのだけれど、その中でも明治維新によって天皇家にフォーカスがあたったことで、日本のその他の宗教全体に対して大きな混乱が生じたとあった。たしかに著者のいう考え方で行くと昨今の靖国問題の根本の原因ではないかと感じるけれど、組み立て方が単一すぎるのでこれは天皇家側からの視点で書かれたものも読んでみたい。

新 ブラックジャックによろしく 3

2007/12/26(Wed) Book

新 ブラックジャックによろしく 3
新 ブラックジャックによろしく 3
佐藤 秀峰 (著)

-僕は冷たい人間です…

 僕の知らない誰かが、僕の知らない場所で亡くなっていっても、
  僕は涙を流しません…

 悲しい気持ちにはなるかもしれないけど…
  出会っていない誰かのために僕は何もできません…
   僕が助けたいのは赤城さんです…

 仮に99人の患者を救えたとしても、
  本当に救いたいたったひとりを救えなければ意味なんてないんです…-

進歩がないとか、気持ち悪いとか、Amazonでは酷評されてますが、引用した言葉は真実じゃないかと思う。故に、そうではないと信じたいから人はカタルシスのある物語を求めるのに、この物語はそうではない。

1週間ほど前に、ネットでとあるビデオを見つけた。僕もネットでいろいろな動画とか画像を見てきた方だと思いますが、この動画は最初は最後まで見る事ができなかった。あまりにも凄惨で、興味本位で見るべきではないと思うので、迷ったけどこのブログからはリンクは貼らないでおきます。簡単に言うとスプラッター系です。見る意志のある人は直メールでも下さい。

とはいえ、決して興味本位で撮られたものではなく、ドキュメンタリーとかジャーナリズムとかの意志に基づいて撮影された、とある場所で起きたある出来事を取材したもの。ただ、そこに展開されるリアルがゲームや映画や日本で見る事ができる報道とは度合いが違いすぎる。映像その物にもショックを受けるし、そこで展開されている事を行っているのが僕と同じ人間である事が痛ましくてならない。涙さえ出ない。

それが起きた経緯を調べてみると、僕が追っていっただけでも日中戦争までさかのぼる。おそらくもっと昔から繋がっているのだろうと思う。それを見た僕は、何もできない。僕が痛みを感じれない人間だといわれてしまえばそれまでだけど、結局本当に痛みを感じる事ができる範囲はとても小さくて、さらにそれをフォローできる範囲はさらに小さい。僕にできる事は何もなくて、こんな動画見なければよかったと思ったけれど、それでもやっぱり直視しなければいけない事だと思って最後まで見た。

社会が成熟していないとか、宗教の悪い面と簡単にまとめる事もできるのだけれど、その映像の中で動いているのは僕と同じ人間。とても絶望してしまう。だからといって、人類愛とか、世界平和とか、そういう思想には全く共感できないし、何かが変わるとも思えない。いろいろ考えて結局僕が思ったのは、そういう世界があるが故に、目の前の世界を、自分の目に映るとても小さな範囲であっても、あるべき姿に保とうとする事しかないんじゃないか、というありふれたもの。例え何度壊されても、それを作り続ける事ぐらいしか、僕にできる事はないんじゃないだろうか。

錦繍

2007/12/24(Mon) Book

錦繍 表紙
錦繍
宮本 輝 (著)

実に1ヶ月半ぶりの読書。10月から途端に読む量が月1冊くらいになってしまった。この本も200ページ弱と短めなのだけど、なかなか頭に入ってこなくて3時間くらいかかってしまった。継続して読んでいるときは、そうでないときよりやはり吸収がいいんですかね。この本は、最近知り合った人からのオススメ。これの他にも同じ著者のやつをもう2つ買ってきた。

書簡体(手紙のやりとりの形をとる物語)を読むのは、辻仁成と江國香織の「冷静と情熱の間」以来で、ちょっと新鮮でした。表現が若干単調になってしまうのはそのせいで仕方がないのかなと思ったけど、最後の方ではこの作家の表現の特徴なのかなと感じた。

僕は本には出会うタイミングみたいな物があると思っていて、まだ自分には早すぎて何を言っているのか分からないものもあれば、自分自身の経験からだいぶ立った後にそれを言語化してくれる本と出会う時もあったりして、人との出会いくらい大きなものじゃないかなと、個人的には思っています。

そんな意味で、ちょうど一つ前のエントリに書いたのと同じ「私は最近、私の<いま>は、過去の私によってもたらされていると確かに思えるようになりました。」を見つけたときは、やっぱりそういう出会いみたいな物があるのだなと、少しだけ確信したりしました。

この本で全体を通して書かれているのは、「輪廻転生」や「業」という宗教に近い考え方や、そしてその中を生きている人間自身についてなのかなと感じる。おそらく去年の自分ならこういう話はうさんくさくて途中で読むのをやめてしまったと思うんですが、今年はいろいろあったので、自分の中ですんなりと理解できるような気もしました。

読み終わった後で調べてみたら、この著者の信仰は創価学会のようで、僕は創価学会の教えは知らないけど、前出のことはたぶんその教えと関係しているのかなと勝手に思う。分かりやすいところでは瀬戸内寂聴はじめとして、宗教と文学はよく繋がっているのでさして珍しいことではないのですが、イスラムとかはよく知らないけど、仏教とかキリストとか、どの宗教もみんな同じ事を言っているような気がしてくる。

隠された風景

2007/09/02(Sun) *Pickup, Book

隠された風景 表紙
隠された風景
死の現場を歩く
福岡 賢正 (著)

-無数の「死」があるからこそ我々の「生」がある。
 そして人が自らの「生」を実感するのは、
  他者の「死」にふれた時である。

 その「死」と生活の場で身近にふれることができなくなったことが、
  「生」をかけがえのないものとして慈しむ契機を
   人々から奪ってしまったのではないか。-

僕のブログはよく「暗い」といわれる。本人としては、静かに、普段あまり考えることのないそういう暗いとされているものをきちんと見つめることは大切だと思っていて、しかもそんなことを普段の生活の中で真面目に考えることはないのでブログで書いているのだけど、そんな事をしていると暗いと言われるのかもしれません。特に最近は祖父の死が会ってから、死や宗教といったものについて書くことが多いので、なおさらそう見えるのかもしれません。

普段一日中パソコンに向かって仕事をしていると、「生きている」と思うことはほとんどない。そんな僕が、祖父の「死」と触れることで、「生」を感じ、考えることが出来た。その経験や、最近考えたことが一つに繋がったのがこの「隠された風景」という本で、「野犬などのペットを殺す動物処分」、「牛や豚などの屠畜」、「人間の自殺」という普段の生活からは「隠された風景」に焦点を当てた本でした。

命は大切だ。犬や猫などのペットも、牛や豚などの家畜も、人間の命と大切さはなにも変わらない。その考えの基に動物愛護を訴え、保健所が動物を殺すことや、屠殺することを非難する人たちがいる。僕はどちらかというと、命が大切と言うところまでは同意するけれど、生きる上で必要な悪だと、この本を読むまでは思っていました。それは、ただ真剣に考えたことがなかったから。著者はその様子を下記のように示す。

つまり、日々動物の肉を食しながら、「動物を殺すことは残酷でいけないことだ」と考え、その仕事をしている人たちに白い目を向ける。そんな漫画のようなことが今もまかり通っているのである。その傾向は「動物好き」を自認する人たちにことさら強い。肉を食べるものが、家畜を育てたり、屠畜して肉をつくる者から完全に分離されていて、そこから目をそらすことができ、いのちをもらう事に伴う心の痛みを感じなくてすむ仕組みになっていることが、その劇画化された構図を支えている。

小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないと言って平気で食べ物を捨てると言うことが、わたしには納得いかないのだ。わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、何の迷いもなく同居していることがおそろしくてならない。

この本を読むのはしんどい。今まで目を背けてきた部分だから。でもしっかり読んでいくと、今まで見ていなかった所を直視すると、見えてくる風景がある。

(屠殺を経験した小学生の感想文)
私は、ころされた豚を見てなきました。でも、できあがった肉は、ないたことなんか、すっかりわすれて食べていました。私がないたのは、見せかけだけのなき方だったと思います。もし本当にないていたら、肉なんか見る気にもなれなかったと思います。私は、あの時、なぜないたかふしぎです。かわいそうでないたのか、それとも、自分をやさしくみせかけようとしてないたのかもしれません。

そして著者が提示した一つの答え。僕はそれに、共感すると言うよりも、納得をする。そうやって僕らは生きているし、それを手助けするために宗教があったりする。そして、僕が「死」に触れて「生」を感じたことも、とても自然なことだったのではないかと、今は思う。

人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。

我々は「死」を身の回りから遠ざけてきたのと同様に、「死」を「生」に変える土を「汚いもの」として疎んじ、土から離れた生活を追い求めてきた。それは我々が「いのち」の循環性に目を向けず、一回限りの「自我の生」のみにこだわった文明を育ててきたということを物語っている。

「いただきます」とは「命をいただきます」なのだ。
一度読んでみて欲しい。ただそれだけ。

現代語訳 般若心経

2007/06/10(Sun) *Pickup, Book

現代語訳 般若心経 表紙
現代語訳 般若心経
玄侑 宗久 (著)

-「生まれた」という認識も「滅した」という認識も
  ありのままの実相ではなく、じつは脳内に現象した大雑把な「概念」に過ぎません。

 解けないほどに絡み合った関係性を、
  とりあえず無視してザックリ切った認識と見るしかないのです。-

有史以来どんな文明にも必ず宗教があるのは、人間が死を知ってしまった唯一の生き物だからと誰かが言っていた。自分の死は怖く、他人の死は悲しく空しい。でも、誰にでも必ず訪れる死と向き合うことが、生きることだと思うようになった。これまで陰気くさいと思っていた死や宗教というものが、とても生きるという事に近いものだと思うようになった。

何が善で何が悪か。何が美で何が醜いのか。何が幸せで何が不幸せか。何が生で何が死か。著者はそれら「私」自らが作り出した観念によって自ら苦しみを生み出している人間に、その根源にある「いのちの全体性」を見よという般若心経の心を説く。

理解するのではなく、感じよと説く。理解するのではなく、体験せよと説く。うさんくさい、極めてうさんくさい。でもこんな状況の中では、読んでいてだんだんと気持ちが少し楽になるのも確か。それさえも「私」が作り出した幻想なのか、「いのちの全体性」に近づいているのかはよく分からない。

これは僕の中の「私」の概念だけど、死は生きる事の終わりではなく、死は生きることの一部であると思う。死ぬことまでを含めて生きることだと思う。故に、死を感じる事が生きる活力になる、という言い方は若干誤解を招くが、生きる糧になるといえば少しは伝わるだろうか。

報道ステーション 女子高生コンクリート詰め殺人(2004年7月28日放送)

2007/03/13(Tue) Clip

1988年11月25日、当時17歳の女子高生を少年らが拉致監禁し、40日間にも及ぶ筆舌に尽くしがたい暴行の末、翌1989年1月5日に死亡させ、遺体をドラム缶に入れ、コンクリート詰めにし遺棄する。その後別の事件で逮捕された少年の自供により、1989年3月29日に事件発覚。1991年7月12 日、主犯格の少年Aに懲役20年、少年B、C、Dにそれぞれ、懲役5年以上10年以下、5年以上9年以下、5年以上7年以下という判決が言い渡された。

1999年に出所していたサブリーダー格だった少年Bが2004年5月19日、知人の男性を監禁し暴行を加えたとして、逮捕監禁致傷の容疑で6月4日に逮捕され、2005年3月1日懲役4年の判決を受けた。

倫理観とはなんなんですかね。綺麗なもの、賑やかなもの、形で表されるものがよしとされ、暗いもの、目立たないもの、言葉にならないものが嫌み嫌われる時代。このエントリもどちらかというと後者に属すると思うのだけど、それを避けていると積もり積もってしまうだけだと思うのだけど。

その人が持つ、その人も意識していないレベルでの価値観。いつの頃からか汚れてしまった宗教という考え方。家に仏壇があったりたまにお墓参りに行ったりする中で自然と生まれてくる、死者を弔うという考え方であったり、他利行という考え方であったり。普段からそうやって言葉にしないにしても、宗教は知らず知らずのうちにいい意味でその人に影響を与える事が出来るものであると思うし、その意味で宗教は人間に必要だと思う(必須ではないが、宗教はそれを簡単に得られる材料だという意味)。

どんなことも、最終的にはその人個人の心の中で判断されることであり、その判断材料となるのはこういったことじゃないかと僕は思う。そして、つい自分以外の誰かが動かしているように考えてしまうこの社会は、そういう一人一人の細かいそういった判断が積み重なったものであると思うから、僕はその判断の軸をどうしてもブラしたくない。ああ、眠い。

ダリ回顧展

2006/10/29(Sun) *Pickup, Exhibition

ダリ回顧展

ダリ回顧展

ダリの絵を最初に見たのは、新潟で某氏がある日ぽんと持ってきた小さな冊子で、その冊子はダリの絵がいっぱい載っている物でした。それまでにもちらっと見たことはあったけど、きちんと見たのは初めてで、ひどく感動しました。特に有名な時計が曲がっている絵(記憶の固執の崩壊)に。

そんなこともあって、期待に胸をふくらませて大混雑と噂の上野へ。僕が行ったときは11時くらいでしたが、30分待ち。でも実際はそれほど待たなかった気がする。でも、どんどん人を入れていたせいで、中はとても絵をゆっくり見ていられる環境じゃなかった…。すぐに全部見るのはあきらめて、ピンポイントで見ていくことにした。(できたら平日にもう一回ゆっくり行きたい…)

記憶の固執の崩壊
記憶の固執の崩壊

「記憶の固執の崩壊」は、思っていたより小さな絵だった。A4くらいのサイズだったと思う。でも、そんなにちいさくても、その絵から伝わってくる平衡感覚やいろんな前提条件をリセットされてしまう不思議な雰囲気のせいで、とても大きな絵に感じた。いくつかの有名なダリの絵(「ビキニの3つのスフィンクス」とか)が見あたらないなぁと思っていたら、それらは諸橋近代美術館に収蔵されていて、今回その美術館はこの回顧展に参加していないからだと思われる(違っていたらごめんなさい。)

世界協会会議
世界教会会議

今回初めて見た絵の中では、「地質学的循環」や「世界教会会議」といった絵が印象的だった。キリスト教が世界に広く普及した背景には、その世界観や宗教画の、美術としての美しさみたいなものがかなり影響していたんじゃないかなぁと思った。なにか、人が根本源的に求めている物が描かれているような気がした。そして、その世界の中に自身をさらっと(じゃないかもしれないけど)描いてしまうことで、ダリがいろんな事を僕らに提示しているのではないかと感じた。

ダリ (アート・ライブラリー 表紙
ダリ (アート・ライブラリー)

貝と羊の中国人

2006/09/30(Sat) Book

貝と羊の中国人 表紙
貝と羊の中国人
加藤 徹 (著)

ポッドキャストで聞いている伊藤洋一のRound Up World Now !で紹介されていた本。 財、貨、賭、買などの貝のつく漢字と、義、美、善、養などの羊のつく漢字から、中国人の深層がかいま見えるという本。「日本人は勤勉だ」とかいう評には、当然そうでない人もその通りの人もいて、あまり意味をなさない。この本で書かれているのは、どちらかというと文化や歴史面からの分析。

たとえば、日本語は「かゆい」と「くすぐったい」を区別するが、中国語は両者を「痒(ヤン)」の一言で示す。また、「冷たい」と「寒い」を区別せず「冷(ラン)」で済ませる。逆に、日本では「三日(みっか)」という言葉で日付を表す「六月の三日」という意味と、期間を表す「三日間」というふたつの意味を表現するが、中国語では日付は「三日(サンリー)」、期間は「三天(サンティェン)」と区別する。商業や政治、軍事などの面でもまれてきた中国語は「外向性」に富む言語であり、島国で攻め込まれることもなく同じ民族が生活している日本は互いの内面などの「内向性」に富む言語。その言語を用いて行われる会話は、考え方にも少なからず影響を及ぼすと説く。

こういった文化的な事や、一つの王朝が300年以上統治したことがなかった事、軍事的な面では必ずしも利点ばかりではない広大な国土とそこから発生する隣接国の多さにより遅れていた内部統治が、ソ連の自滅などによりようやく行われるようになってきた現状などを解説することで、逆に日本の特性も深く理解することができた。

小泉首相のように、それぞれの文化や宗教の違いと言い切ってしまうことはとても簡単で、現にそういうものでもある。ただ、この本で書かれているようなお互いがお互いになぜそういう行動を取るのかという背景を理解すれば、変に感情的にならず、打開策を探れるのではないか。そういう意味では、たとえば靖国という問題で両国が取った行動は、あまりにもシンプルすぎたのかなぁと思う。同じような顔つきをして、ご近所さんではあるけれど、まったく違う国だと言うことは、たしか。

日はまた昇る

2006/04/30(Sun) Book

日はまた昇る 表紙
日はまた昇る
日本のこれからの15年
ビル・エモット (著), 吉田 利子 (翻訳)

-日本は革命の起こる国ではなくて、
  いったん合意の元にコースが決まったら、
   忠実かつ着実にそのコースを進む国なのである。-

日本よ、再び」に続いて読む。同じ事柄を別の視点から書いた本を連読するのは、頭も回りやすくて、視点も凝り固まらず、いいかも。どちらの本も、「日本は大丈夫だ、でも油断するなよ。」と語りかけてきます。

イギリスの歴史とかには全然知識が無くて的はずれかも知れませんが、大陸に隣接した資源や国土の限られた島国として、結構学ぶところがあるのではないか。そんな期待でイギリス「エコノミスト」編集長のこの人の本を買いました。

思っていたより日本を的確に捉えていて、日本人の僕らが知らなかったような情報もいくつか得る事ができた。僕らが他国のそれに鈍感であるように、この本でも宗教問題についてはいくぶん雑な解釈をしているけれど、経済と外交についての主張はなるほどなと学ぶところが多かった。

日本は高コストの国になってしまったけれど、人口減少を効率化の機会と捉えれば、高付加価値の製品やサービスを低コストで提供できる、究極の島国になるのではなかろうかと、そんな事を思いました。

再び昇った太陽は、僕らの未来を、明るく照らしてくれるのだろうか。