Posts Tagged ‘責任’

昭和天皇論

2010/03/29(Mon) Book

昭和天皇論 表紙
ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論
小林 よしのり (著)

しかし、私には国体を護れる確信がある。

前著「天皇論」の前編ともいえる本。主に終戦の決断とその後について書かれている。「人間宣言」は「新日本建設に関する詔書」であり、宗教的な神(God)である事を否定しただけで今も昔も「カミ」であるというのは前著天皇論でも共感した部分だけれど、新たに「聖断」や戦争責任にまつわる経緯の部分は興味深く読んだ。

ただ、「天皇論」では歴史的事実とは別な皇室や天皇をどうとらえるかという話だったので、著者の持論も納得できるところは納得し違和感を覚えるところは一つの考えとして読み進めていたけれど、今回の「昭和天皇論」は歴史的事実と著者の解釈が巧みに混在しているので、若干読者をミスリードとは言わないけれど、意図的に誘導している感がある。

歴史的事実や言動との合間に著者の想像での行動が織り込まれており、それを元にした論理立てがされているところがある。前著「天皇論」のように歴史的事実や言動の解釈を自由にすることはかまわないことだと思うけれど、歴史的事実に見せかけた著者の解釈を挟んでくるのは違和感を覚える。

故に、最後の結論にもいまいち納得しきれない感が残った。読み終わってからふと、何を持って日本であり日本人であるのだろうと考えた。国土的なものなのか、血縁なのか、言語なのか、国旗なのか国歌なのか。浅い頭で、前の世代から受け継いだものを次の世代によりよい形で引き渡す意志があるかどうかではないかと考えたけれど、どの国にも当てはめることが出来てしまうので何か違う。それが何なのかは、まだ分からない。

仕事するのにオフィスはいらない

2009/08/15(Sat) Book

仕事するのにオフィスはいらない 表紙
仕事するのにオフィスはいらない
佐々木俊尚 (著)

「オフィスがない」「フリーランス」「契約で仕事をする」と聞くと、そういうイメージでとらえられてしまうのは否めません。しかし本書で明らかにしようとしているノマドの生活はそのような「弱者」としてではなく、あくまでも個人としての矜持を保ち、そして自宅やカフェや外出先などでテレワーク的な仕事をこなす独立独歩な人たちを指して、ノマドと呼んでいるのです。能動的に行動し、何のために仕事をしているかという価値観をしっかりと持って、新たなワークスタイルを実践している人たちが、ノマドなのです。

東京から福井に帰って仕事をし始めてもうすぐで1年になるけれども、なんとなく感じていた福井で仕事をする感覚というものが具体的にまとまってきた。東京の会社と福井の会社での一番の違いは、仕事の幅が福井では多くならざるを得ないという事ではないかと思う。僕が経験した会社は数社しかないので以下それが前提になりますが。

東京の大きめの会社だと、会社自体はいろんな事業をやっていたとしても、プレーヤーであれば一つの事業や一つの業務を担当しそれに責任を持つわけで、ポジティブに見れば専門性を磨きやすく、ネガティブに見れば歯車となりやすい。僕が福井に帰ってきて良かったことの一つが、大変ではあるけれど一人で広い範囲を見れる事。

ただ福井だと当然市場や金額が小さいので、一つの事業を同時にたくさん行うか、専門以外の事もやるパターンが多い。専門以外の事というのも二つあり、一つのテーマに集約される(サイト構築でディレクションもコーディングもする)のならまだしも、いわゆるなんでも屋(ネットやってるならPC詳しそうだからプリンターの設定もやってよ)になりがちである。特にネット・IT分野は。この二つは「幅が広い」と同じように定義できるかもしれないけれど、実際の所かなり違う。いくらプリンターの設定がうまくなってもウェブ構築にはまったくプラスにならない。クライアントとのコミュニケーションという意味では否定しないけれども、実際の所それでは収まらないものがある。

そんなわけで、フリーランスになる事は考えていないけれども、会社の中にいながらノマド的な働き方って出来ないだろうかという視点でこの本を読んだ。とはいえ、最初から福井でそれは難しいだろうなと思っていた。自分自身、ディレクターという立場でデザイナーが隣にいて一緒に作業できる「場」を共有することが仕事のしやすさという意味でも制作物のクオリティという意味でもプラスになっている事を実感しているから。

デジタルツールやクラウドを使ってのコミュニケーションと言っても、発信する側だけではなく受け取る側にもそれなりのリテラシーが必要になるので、そう簡単にはできない。それに、社内からもクライアントからも、同じ「場」を共有することをストレートに求められるし、その有用性は僕も感じているので、本書を読んでも、福井という場とディレクターという僕の職業上、可能なのかどうかはいまいちまとまらなかった。

ただ、最近今のままのスタイルで仕事をしていくのはしんどいなぁと思う機会が増えてきている。地元に帰って知り合いとの交流が(これでも)前に比べれば増え始めていたり、地方だからといってクライアントが求めるレベルが下がるわけではなくより具体的で効率のよい対応を求められる。絶対的に東京の時より仕事に割く時間が増えているし、時間があるときも気持ちの余裕が減っていて、結果的に新しい事を学んだり知識を深めたりする時間が減ってしまっている。

仕事のやり方を変えないとなんだか持たない気がしているけれど、ノマドは本人の変化よりも周りがノマドを受け入れる事の方が労力が大きいように感じるので、その変化が直近で起きるとも思えない。それに、場を共有することのメリットを僕自身が実感しているというのもある。が、近視眼的な事を続けても僕も周りも誰も得しないのでなんとかしたいのだけれど、どうしたものか、という堂々巡り。

受託開発の極意

2008/11/09(Sun) Book

受託開発の極意 表紙
受託開発の極意
–変化はあなたから始まる。現場から学ぶ実践手法
岡島 幸男 (著)

要件を定義するには、ユーザと同じ視点を持つ必要があります。つまり、どうやって作るか(How)ではなく、何を作るか(What)、なぜ作るのか(Why)という意識をもたなくてはいけません。

開発者は視点を切り替えなくてはいけません。システムを作る立場ではなく使う立場で考え、お客様と一緒に考えを整理していく必要があります。

そこに必要なのは広い意味での問題解決能力であり、プログラミングや設計のスキルだけでは足りません。業務に対する知識はもちろんのこと、要件を引き出すために高いコミュニケーションスキルが必要となります。

同じ福井の永和さんの本。ちょっと前にネットの中でもいくつか取り上げられていたので、受託の現場に帰ってきたら読もうと思っていた。「SEの教科書」とだいたいの主張は同じなんだけれど、クライアントとの接し方、見積もりの作り方、要件定義の仕方と具体論に踏み込んでいる。

こういういろんな本を読んでいると、あるべき受託開発へのイメージがだいぶハッキリしてくる。今の時点でイメージしているのは「結果に責任を持って物も作るコンサル」といったところ。コンサルと書いたのは、コンサルって口だけなイメージがあるので(失礼)、実際にそれをクライアントと一緒に作っていくサービス業のようなイメージ。

クライアントから言われたシステムをクライアントから言われたとおりに作ったり、いかに他社より安い金額で開発するかに心血を注いだり、自分たちのやりたい技術のエゴを振り回してクライアントを放っておくのではなく。クライアントの求める物と自分たちが持っている技術の間を探り、必要とされているニーズを解決する事が、本来の受託開発という仕事なんじゃないのかなぁという気がする。

この本では最終的には組織を変える事にまで言及しているけれど、できればクライアントを変えるという所にまで踏み込んで欲しかった。安かろう悪かろうのシステムを求めるクライアントは最終的にクライアント自身が損をして、システム開発に対するイメージがどんどん悪くなって次の案件でも同じような事を繰り返してしまう、というのはどう解決したもんだろうか。

あまりにも無責任な最後の多事争論

2008/11/08(Sat) Society

まだ自分の中でも迷っていて確信はないのだけれど、とりあえず書く。筑紫哲也氏が逝った。NEWS23で放送された最後の多事争論のテーマは「この国のガン」だった。(WEB多事争論から閲覧できる)「政治とは世代の間でパイを奪い合うものだが、今この国はガンに陥っている。ガン細胞が出来ると本来使うべき栄養素をガンが使い果たしてしまい栄養素が体全体に回らなくなるように、日本という国のガン細胞がパイを全て食い尽くしてしまい、どの世代にも配分されていない。そういう問題ははっきりしているが、敵は大きい。」と。

それだけだ。それだけ言って逝ってしまったのだ。少し前の爆問学問の姜尚中の回で、爆笑問題の太田光が「現在の50才や60才、70才の人たちはこの国の仕組みを作ったが、いまそれがボロボロになっている。70才近い人は戦争も経験している。だが、それを一切解決していない。甘い汁だけ吸って、死んでしまう。それはあまりにも無責任ではないか。」と言っていた。僕は自分たちの世界は自分たちの世代でやっていくべきだと思っていたので、ちょっと新鮮だったけれど、半信半疑で聞いていた。

でも、今日のNEWS23では、筑紫氏がいかに文化人で、テレビというメディアを楽しみ、そして死んでいったかということを各界の人たちのコメントを積み上げながら、そういう筑紫哲也像を作り上げていった。そして、最初に書いた最後の多事争論の主張。「僕の出来る事は、こんな所です。後は頼みます。」とでも言わんばかりに死んでいった。

ガンなのは分かってる。でもそれを造り出したのはお前達じゃないのかと、自分の実感として思った。太田も言っていたが、なぜ他国の軍が駐留して自分たちの国を守っているのか、なぜ首相が靖国に行くか行かないかであれだけもめて他国に好き勝手言わせているのか、なにも解決していない。自分たちが生み出した問題なのに。なぜこれだけ不安定で孤立した社会の中で僕たちは生きていかなければならないのか。それはやはり、あまりにも無責任すぎるのではないかと、今は思う。まあ、彼らが責任を認めたところでどうせ数十年でこの世からいなくなるので、ガン細胞を取り除かないと行けないのが僕らである事には変わらないので、むなしくはあるのだが。

Re : プログラマとコミュニケーションの取れるディレクターになるには

2008/11/06(Thu) Clip

プログラマとコミュニケーションの取れるディレクターになるには – あと味

静的Webで通用した時代と違い、今はプログラマとコミュニケーションが取れるスキルは必須です。技術について朝までプログラマと語り合えるぐらいの知識を持っていた方が、私は良いと思っています。技術なくして提案はできない。

id:jdgがプログラマとディレクタの関係について面白い事を書いているので、補足というか、別視点というかそういう事を超上から目線で自分への戒めも含めて考えている事を書いてみる。新潟の方のダムが好きなプログラマから「よくお前が言えるな」といわれそうだけれどとりあえず書く(汗。

そもそも、「プログラマとコミュニケーションの取れるディレクター」というのは間違ってはいないのだけれど、それをちょっと誤って解釈すると「プログラマと仲良くなる」というような解釈になってしまいそうなので、「ディレクタはクライアントとプログラマ(orデザイナ)の通訳であるべきだ」と解釈した方が正確ではないかと思う。

で、id:jgdか量を書いて主張している「何を使えば何ができるかだけ把握し使用方法は捨てる。」には同意。「できることと出来ない事」についてはかなりの精度で把握している必要があり、仮にどれだけ時間かかってもいいから自分(ディレクタ)でやってみろと言われたときに出来る事の範囲で案件を着地させなければならない。

それから、ディレクタはプログラマやクライアントと常にフラットな立場であるべきだと思う。時にはプログラマが要件を満たした後でも納期を考えずクオリティを追求したり、クライアントのニーズを考えずに技術トレンドに走りたがったりしたときに、客観的に判断して制御しないといけない。

とはいえ、それはプログラマに対して高圧的になると言う意味ではない。プログラマが納期がこれだけかかるといわれればそれを問答無用で納期を理由にハードワークさせるのではなくクライアントと要件を調整する責任がある。じゃなきゃ伝書鳩だ。まあこれは当たり前ですが、けっこう無視されているのも事実。

具体論に進むと、プログラマほど属人的な性格が高い仕事もないのではないかとおもう。ある人が10日かかる事もある人は1日で出来たりする。なのでディレクタとしては、「プログラマ」として認識し人区勘定するのではなく、「プログラマのAさん」「プログラマのB」さんと別の職種のようなレベルで区分けをし、その人の得意な分野や好きな事、苦手な分野を把握してアサインする必要がある。要はプログラマはプログラマというファンクションではないという事。

また、前にやった案件の焼き直しでは、優秀なプログラマほど飽きる。クライアントのニーズを前提として、技術トレンドやその人の志向にそった「燃える」ワンポイントな機能や技術を盛り込んだりして、プログラマ(orデザイナ)を楽しませる事も、ディレクタのとても大切な仕事のひとつだと思う。

細かい話としては、プログラマにはまずワークフローを共有しお互い納得するまで議論する。本人が意識していないレベルでフォーターフォールを前提に考えて仕事をしている人が多いので、ウェブには沿わないのではないかという事は説明する。なので、要件を伝えるときには、「決まっている事」「決まっていない事」「変わる可能性がある事」をきちんと説明する。そうすれば優秀な人ほどいい意味で手を抜きながら開発をスタートしてくれる。

以上書き散らかしましたが、これがまったく出来ていない時に僕の無茶に答えてくれた新潟のダムが好きなプログラマや、なんだかんだでつきあいの長いインプレッサが好きなプログラマに全て教わったことです。心から感謝しています(棒読み)。というわけで、ツッコミ大歓迎。(酔った頭で書いています。その点ご考慮下さい。)

TK

2008/11/04(Tue) Society

globe

小室哲哉容疑者ら逮捕 著作権巡り5億円詐取認める – 朝日新聞

大阪地検特捜部は、90年代に多くのヒット曲を生んだ音楽プロデューサーの小室哲哉容疑者(49)=東京都港区=が自作曲の著作権のうその譲渡話を持ちかけ、兵庫県芦屋市の男性投資家(48)から5億円をだまし取った疑いが強まったとして、4日朝、関係者2人とともに詐欺容疑で逮捕した。小室容疑者の自宅なども家宅捜索した。特捜部によると、3人とも容疑を認め、小室容疑者は「間違いない。申し開きすることは何もない。責任をとって弁償したい」と述べているという。

ライツビジネスでお金を稼いでいた人が著作権の仕組みを知らないはずがないと思うので、お金に困った故の確信犯なのでしょう。その前から民事で告訴されてたみたいだし。

なんというか、悲しいですな。音楽を聴き始めた小学校高学年頃からちょうどtrfが始まり(初めて買ったアルバムがtrfのdAnce to positive)、globe、安室奈美恵、鈴木あみ、True Kiss Disc、小林武史とのプロデューサー対決と、確実に僕の10代はTKでした。

その頃ネット展開しているアーティストって少なくて、初めて入ったファンクラブが小室哲哉のファンクラブで、抽選で当たって石川の厚生年金会館に鈴木あみのライブに行ったのが、僕のライブ初体験でした。すべてのアルバムを揃えているアーティストってglobeくらいじゃないかと思う。

しかし、iTunesでの即時販売停止ってのはどうなんでしょうね。岡村靖幸が覚醒剤で逮捕されたときも販売停止になったとか聞かなかったと思うけど(追記:販売停止になったようです)。過去の曲は何も否定される事がないと頭では理解していても、心では10代が否定されたかのように感じてしまう。

木根尚登がコメント「TM復活信じてる」 – 芸能 – SANSPO.COM

長年活動を共にしてきた小室について「僕は共に音楽を創ってきた友人として、今までも、これからも彼と出会えた事のよろこびと感謝の思いは変わりません。そして彼をリスペクトする気持ちも変わることはありません」と綴った。

また、今後について「僕は、彼がゼロから立ち直る力も持っていると思います。だから僕は、TM NETWORKの復活もあると信じています」と締めくくった。

福田さんに首相の資格が無いと言う前に、国民に有権者の資格がない。

2008/09/03(Wed) Society

福田首相辞任会見要旨 福田首相退陣 – 朝日新聞

記者「『首相の会見がひとごとに聞こえる』という話があった。政権への影響は。」

福田首相「順調にいけばいいですよ。それに越したことはない。しかし、私の先を見通すこの目の中には、決して順調ではない可能性がある。その状況で不測の事態に陥ってはいけない。「ひとごとのように」とおっしゃったが、私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたと違う。そういうことです。 」

年明けに辞めると思っていたので今の時期辞めたのは予想外だったけれど、それに対する国民の反応は予想通りだった。「なぜ今辞めるのか」「首相の資質がなかったということ」「リーダーシップに欠けていたが、品があって落ちついた感じで嫌いじゃなかった」「任期途中で放り投げてしまって無責任な感じで残念」(朝日新聞より抜粋)

支持率が25%(8月30日付朝日新聞調査)となり75%が快く思っておらず、任期まで持たない、リーダーシップがない、早期退陣をとさんざん言っていたのは誰だと。国民の望んだとおりになったのに、なんで文句を言うんだろうか。どうせ続けていても、辞めろ辞めろと言っていただろうに。福田さんは予想が出るとそれを意図的に外してくる人だから、年明け以外の時期で一番影響が少ない時期を選んだのではないかと思う。「人ごとのようにとあなたはおっしゃいましたが、私は自分自身は客観的に見られるんです、あなたとは違うんです。」という言葉はメディアに対するいい皮肉だと思うのですが、メディアと国民は逆ギレといってあほみたいに喜んでる。そんなことやってるからこういう政治の状況なんだろうに。

何回首相の首を差し替えたって、何にも変わらない。福田さんが最高だとは言わないけれど、国民は、まるでボーカーのように何回も変えていればそのうちパーフェクトなカードが来ると思ってるんだろうか。一生やってろと思う。参議院の過半数を野党が押さえている時点で、いくら衆議院の解散総選挙をして与党が勝ったって、次の参議院選挙で議席改選があるまではどうしたってねじれのままなんだから、やれる事には限界がある。小泉さんに飽きて安倍さんバッシングしてそんな状況を生んだのは国民。去年麻生さんがなっていても、あんまり状況は変わらなかったのではないかと思う。

歴史(=政治)っていうのは、最善ではない、どちらかというと厳しい環境のまっただ中において、その時点の状況、その時点の人材で考えられうる最善のカード(≠ベストカード)を選んでいく作業だと思う。後からジャーナリストが当時の情勢を調べたりいろんな人にインタビューすれば、もっといい選択肢が出るのかもしれない。でも、当時の時間制限、当時の当事者達が見えていた視野には限界があるのだから、ベストな選択が出来るというのはまれな事。どちらかというと、ベストな選択よりもベターな選択をする事の方が多い。でもそれは仕方のない事。

自民党には実績があり、民主党には期待がある。ところが、自民党は最近長年のボロがでて、民主党は行くのか行かないのかよく分からない。どっちもどっちな状況ではあるけれど、次の衆議院選挙で一回民主党に政権を担当させて失敗してもらって、自民党には権力を失うという苦渋を味わってもらって、2010年の参議院選挙、その次の衆議院選挙と徐々に政権に復帰してもらい、過去の反省をふまえた政権をやってもらうというのはどうだろう。

しかしその前に、国民の頭の中をどうにかしたい。僕の考えが正しいとは言わないけれど、好きだとか嫌いだとかタレントを見るときと同じ思考回路で考えるのは辞めて欲しい。国民は首相を辞任させられても、政治家は国民を辞任させる事は出来ないんだから。民主主義は、国民に高い判断力がないと成立しない政治形態。言い換えれば、国民のレベル=政治のレベル。

08/09/08追記
ブックマークコメントへの返答を別エントリに少し書きました。
iwalog : はてな村の人がいっぱい来た件

Firefox3 Beta5 レビュー

2008/04/07(Mon) IT

Firefox 3 Beta5

Firefox3 Beta5

「Beta 5」はテスト目的でなく一般ユーザにも開放という記事をどこかで見たので、早速入れてみた(一応自己責任でどうぞ)。かなり安定しているので、常用できるクオリティ。史上最速という話だけれど、正直わからん。そもそも、今のPCって十分早いから、相手サーバのレスポンス以外で重いと思うことがほとんどないので、今後はスピードよりもメモリ軽量化とか機能向上に力を注いでほしい。

一番目立つところは、ユーザインターフェイスの改善。Mac OS Xにネイティブになっていて、使い心地がいい。文字のレンダリングも、Firefox2では文字を選択すると微妙に崩れていたんだけれど、Firefox3ではきれいに表示されるようになってる。あと、細かいところでファイルダウンロードの状況がステータスバーに表示されるようになったり、完了時にGlowでお知らせしてくれるところもナイス。

正式版になって各種機能拡張も対応されれば、もう完璧。ThunderbirdもOS Xネイティブになってほしいな。

新聞は信頼性が高いのか?

2008/01/31(Thu) Society

新s(あらたにす)

あらたにす発足―言論の戦いを見てほしい – 朝日新聞

「ネットの時代」といわれるが、問題はどんな情報を流すかだ。無責任で不正確な情報があふれる中では、きちんと裏付けを取った正確な情報を発信する新聞の役割がますます重要になる。そもそもネットに載るニュースも、多くは新聞社が取材したものだ。

「ネットで新聞復権を」 朝日・日経・読売が「新s」(あらたにす) – ITmedia News

ネット上での情報収集は、ポータルサイトを起点にしているユーザーが多いが、「新s」は3大紙のコンテンツを結集してポータルに対抗。長田理事長は「ネットが普及し、メディアが多様化しているが、新聞こそ最も信頼性が高いメディアであり、今後もそうあり続けねばならない。現在、ネットに発信されているニュースは大半が新聞社の記事。他メディアより圧倒的に強く層が厚い取材力でニュースを発信する3社が力を合わせ、影響力や発信力を高めていきたい」などと語った。

「信頼性が高い」というよりも、「一次情報(コンテンツ)の作成能力が高い」という方が適切じゃないかと思う。新聞が一番間違いが少ない情報源かといわれれば、必ずしもそうではない。ただ、当事者からの情報収集力とか、過去の蓄積という意味では、新聞に勝るものはないというのは、朝日の主張に同意する。

ネットは、それらの情報を元にした「二次情報(コンテンツ=MAD)」については圧倒的にチカラがある。2chのネタもニコニコのネタも基本的にはテレビとか新聞のソースが元になってる。電車男とかもたまにあるけれど、「一次情報(コンテンツ)」の作成力は新聞とかテレビに比べるとものすごく低い。やはり一次情報への批判・批評とか、大手メディアが構造的に扱えないネタ(スポンサー関係・小ネタ関係)がネットは得意なように思う。

ただ、「ネットは信頼性が低い」のかといわれれば、それも違うように思う。たしかに、「これを読んだら毎月100万円の不労所得を得ました」みたいなページもたくさんあるけれど、それは週刊少年ジャンプの最後のページにある「これを使えば筋肉ムキムキになりました」のページのようなもので、既存メディア・ネット問わずそんなのに乗っかってしまう方がおかしい。ネタはネタとして、SPAM情報はSPAM情報として見極め、実利に影響がある情報はきちんとしたソースから得るようにすれば、どうこうなるということはないように思う。

新聞が「信頼性が高い」わけでも、ネットが「信頼性が低い」わけでもなく、新聞は「一次情報の作成力」が高く、ネットは「二次情報の作成力」が高い。だから相互牽制しながら発展してほしいなと思う。そして両方に共通するのは、それをきちんと仕分けする利用者側のメディアリテラシーなのかなと、ありがちな結論に落ち着く。

赤ちゃんポスト

2007/11/12(Mon) *Pickup, Clip

「赤ちゃんポスト」に半年で8人 多くは乳児院に – 朝日新聞

熊本市の慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」の名称で赤ちゃんポストの運用を始めてから10日で半年になった。これまで新生児から3歳までの8人の子どもが預けられ、住所がわかったケースはすべて熊本県外からだったという。親が引き取りにきたケースもあるが、多くの子はいま、乳児院にいる。小さな命をどう育むのか、救ったその先にも課題が横たわっている。

考えがまとまっているわけではないですが、今思っている事を少しだけ。

「後先考えずに産んで面倒を見きれなくなり子を捨てる無責任」と、「赤ちゃんポストで引き取った後のことがまだあやふやな状態で運用を始める無責任」。前者は何も生まないどころか殺めているけれど、後者は少なくともいくつかの命を繋いでいる。その同じ「無責任」の差はとても大きいと思う。

マンガ「ブラックジャックによろしく」でも似たような話があった。緊急出産で障害児が生まれた両親が、出産に際して親への手術の同意がなかったとして生まれた子供の認知を拒否する話。その話の中では、主人公が悩んだ末に「医者は生まれた後の事まで責任を持つ必要はなく、ただ目の前にある命を助ければいいんだ(超要約)」という結論を出す。読んだ時の僕はそれに賛成も否定もしなかった。

そもそも、人が生まれるというひとつのイベント自体が、計画性やきちんとした知識やといったロジカルな要素とは無縁のものなのではないかとも思う。逆にそういった思いこみが強いほど、生まれた以降その思いこみとのギャップに悩まされてしまうのではないかと思う。欲しくても出来ない人もいれば、事情は多々あれ生んだのに捨てる人もいる世の中。

僕は、きちんと考えた上で、宿ったのに事情があって堕ろしてしまう人や、生んだのに捨ててしまう人、他の人の体を借りて生もうとする人を否定したくない。そにれいくらそういう事を防止しようとしても、どうしても出てきてしまう事だと思うから。それよりも、そういう経緯で生まれた子供や、まわりの手助けがあれば生まれてきたかもしれない子供を生かす方に力を注いだ方が、意味のある事だと思うから。読み返してもいまいちまとまりませんがこのへんで。