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ウェブは菩薩である

2009/01/13(Tue) Book

ウェブは菩薩である 表紙
ウェブは菩薩である
深見 嘉明 (著)

一方、本書で紹介してきたウェブサービス、そして予測している未来のウェブサービスは、利用者に対し、「自分にとって役に立つようにサービスを使ってください」というスタンスをとっています。それどころか評価したり分類したりと、自身の使い勝手にあわせて自由に取り扱うことが推奨されています。そしてそれぞれの利用者が自分の利益を追求すれば、それがウェブサービスの利用者全体の利益に繋がる設計になっています。ウェブサービスでは共有地の悲劇を、自由を制限することなく意図せざる協働を実現させることで乗り越えているのです。このやり方を、現実社会に適用することはできないものなのでしょうか。

ちょっと微妙。既にタギングやマイクロフォーマットという概念を把握しており、ソーシャル系サービスを使っている人にとっては分かりきっていることを体系的にまとめただけな印象。

このメタデータやソーシャル性を現実社会に反映してはどうかという提案は確かに面白いけれど、リソースに限りのある現実社会の中で、民主主義という社会体制や、権力や法律という統治体制に変わる具体的な提案があるわけでもない。もし一般化するために易しく書いたのであれば、この辺を具体的につっこんだ本も期待したい。

著者ブログ:deepen 〜Yoshiaki FUKAMI’s view

年の瀬に。

2008/12/31(Wed) Diary

今年一年もいろんな事がありました。東京から福井に帰り、新しい会社に入り、このブログでの報告が遅れましたがその会社を12月に辞め、年明けからはまた新しい会社で仕事をスタートします。来年からの会社では、今まで以上に自分自身で新しい知識を得ることや過去の知識をアップデートしていくことが必要な環境なので、年末はそのへんの準備をしていたりしました。

今年は結構色々なことがあったので、ひとつのエントリではどうにもまとめようがないです。その状況の真っ最中、その時その時ではいろいろと判断に迷うことが多かった年だったんですが、今はその判断で良かったんじゃないかと、あまり後悔はないです。でもまあ、何事もそうですけど、思った通りにはなかなかいかないもんです。

年のせいなのか社会状況のせいなのかはよく分からないですが、自分が選べる選択肢がだんだん狭まってきていたり、その選択をした時やしなかった時の返りが良いことも悪いことも含めて、大きくなっているなとは感じました。来年はもう26歳。20代の後半がスタートします。

たぶん僕は、まあいろいろと偉そうなことを普段から言っていますが、自分自身の根本的な部分を解決していないというか、ふらついたまま今までやってきたんじゃないのかなという気がします。このままの状態で年を重ねていったときの自分の姿が何となく見えるようになってしまったので、来年はまたゼロから再構築していきたいなと思います。なんだかしめっぽい話になってしまいましたが、きちんと自分に向き合うことにするという事で。

今年お世話になった皆様、ありがとうございました。
来年が、今年よりもいい年でありますように。

右翼と左翼

2008/12/23(Tue) Book

右翼と左翼 表紙
右翼と左翼
浅羽 通明(著)

「左」「左派」は、人間は本来「自由」「平等」で「人権」があるという理性、知性で考えついた理念を、まだ知らない人にも広め、世に実現しようと志します。これらの理念は、「国際的」で「普遍的」であって、その実現が人類の「進歩」であると考えられるからです。

(中略)

対するに「右」「右翼」は、「伝統」や「人間の感情、情緒」を重視します。「知性」や「理性」がさかしらにも生み出した「自由」「平等」「人権」では人は割り切れないと考えます(「反合理主義」「反知性主義」「反啓蒙主義」)。ゆえに、たとえそれらに何ら合理性が認められないとしても、「長い間定着してきた世の中の仕組み(秩序)である以上は、多少の弊害があっても簡単に変えられないし、変えるべきでもない」と結論します。

本書では一応ざっくりと引用したような定義がされているんだけれども、個人的には「右は現実主義・現実肯定」「左は理想主義・理想追求」という考え方の違いだけであって、目指すところは同じ、表現方法(戦争かテロ)が違うだけでロジック(この考えを世界に広めなければ!的な)は同じように感じた。

日本で言うと、戦後など社会の様々なクオリティがあまりにも低かった時代には理想を追求する左翼がもてはやされたけれども、ある程度物量的に満たされてきた現代では左の力が弱まり、日本の右傾化と言われるような傾向になってきた。でも、社会や経済情勢が不安定になった今左が再び強まってきた。という感じではないかと。

既に権力や実務運営をしている政権与党や高所得者は現状肯定・改善という考えで右に振れやすいだろうし、そういうものを持たない一般市民や低所得者やマイノリティは格差破壊や平等の実現という考えで左に振れやすいという印象がある。

僕は、これだけ価値観が一極にぶれやすい日本社会の中で、常に一定の価値観を保っている皇室は価値があると思うし(皇室関係予算180億の6割(110億)を占める宮内庁費はもっと削減できると思うが)、人間はそんなに高尚なものではないと思っているので右寄りなのかなぁと思う。でも、「自由」「平等」「人権」が実現できるものならそりゃあそうなった方がいいと思ったりもするので、右7:左3ぐらいなのかなぁと。

ベーシックインカムは成立するのか

2008/12/23(Tue) Society

「ベーシック・インカム」を支持します – 評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」

どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。

また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。

読んだ直後は、公共事業で間接的に国民にばらまいているお金を直接的に分配すると言う意味でいい仕組みなのかなぁと思ったんだけど、それで社会はまわるのかなぁという不安が出てきた。おそらく経済は理屈的にまわる計算を立てることは出来ると思うんだけれど、そこで実際に働く人間がそれについて行けるのかなぁと。

以下ちょっと言葉が乱暴ですが、文脈を通してご理解下さい。世の中にはあまりやりたくないきつい仕事というのもあると思う。例えば、屠殺をする仕事だとか、ゴミの収集だとか、ペットの処分をする保健所だとか。もちろん誇りを持ってやっているヒトもいるのは理解できるけれども、同じ収入がもらえるほかの楽な仕事があったら、そっちにいってしまうのではないか。

そういう仕事に従事している人が「同じ収入がもらえるほかの楽な仕事」としてベーシックインカムをあてにした場合、「社会構造上必要だけれどあまりやりたい人がいない仕事」に人が集まらなくなり、社会が回らなくなり外部委託(国外や外国人労働者)することになると、社会運営のコストが増えてベーシックインカムの財源に影響するのではないかと。

アルファブロガーとか、経営コンサルタントとか、プログラマーとかディレクターとか、そういう職種だけで社会が成り立つのなら成立する仕組みだとは思うけれども、社会全体の従事者数からするとけっして多くはないわけで、その人達を食わせている側が崩壊するのではないかと思ったりするんだけれど。

螺旋の道

2008/12/09(Tue) Diary

「世代」というくくりで物事を考えることはあまり好きではなかったんですが、最近ひしひしとそういうものを感じる。辞書では約30年を1世代と数えると記されていたけれど、現実は10年程度で社会をどうとらえるか、社会の中の自分をどうとらえるか、という平たくいえば価値観が変わっているように思う。

以前からぼやっと感じていたことが年金に関する議論を眺めていた時に明確になった。例えば今、5歳の子供と、25歳の僕と、45歳の社会人という3人がいた時に、この3人は同じ2008年という時代を生きているけれども、違う時代を生きているのだという事に気づいた。それは人生をスタートしてからの時間の違いであり、積み上げてきたものの違いであり、残りの時間の違い。

5歳の子供は社会というものをまだ認識していないかもしれない。25歳の僕はこれから自分と社会が共に楽しんで生きていける折り合いがどこにあるのかを探しているのかもしれない。45歳の社会人は自分としての芯が定まり子供も自立してさあどう自分の終演に向かっていこうかと考えているのかもしれない。

その3人の前に同じ問題と選択肢が提示されたときに3人が選ぶ答えは、思想信条や環境が同じであっても、同時代性を保持していたとしても、自ずと異なる事が自然なのではないかと思う。そしてそれはどれも正しいし、どれも間違っていないように思う。何か意見の相違があったときに、それを闇雲に時代や世代のせいにはしたくないけれども、その人達が見ているゴールまでの距離が違う以上、必然なのではないかとも思う。

数世代単位でみた人間の長期的変化が螺旋的変化であるとするならば、同じ轍を踏んでいるように見えることでも世代という要素によって微妙に異なるものであろう。おそらく人間は基本的には1世代単位でリセットされていて、どんなに歴史や技術の積み重ねがあったとしても同じ事を繰り返さないと理解しないのではないか。

螺旋の道は、4〜5世代程度で同じ位置に戻るというのが個人的な感触。達観でも諦観でもなくその流れであることを見極めて、仮に自分より後に生きる人たちを見て「同じ轍を踏もうとしている」と感じても「再度挑戦している」と捉えられるようになりたいし、何か言葉を求められたらその観点での言葉を返したい。それはもうほとんど、希望というような境地であるのだけれど。

戦争を起こさないために

2008/11/30(Sun) Society

今日のそこまで言って委員会は国会招致以来初のテレビ出演となる田母神氏(航空自衛隊前航空幕僚長)に加え、松島悠佐氏(陸上自衛隊元中部方面総監・阪神淡路大震災時の最高指揮官)、川村純彦氏(海上自衛隊元海将補)と陸海空の方々が揃って、90分全て使っての国防スペシャルでかなりおもしろかった。

議論は必然的に自衛隊の存在意義に進んでいくんだけれど、右派と左派(あまりこの言葉は好きではないですが)が「戦争を起こさないために」という共通の理念の元全く異なる主張を展開する。田母神氏など自衛隊経験者や右派は、抑止力としての軍隊を持つ事での相互抑止による実現を主張し、原和美氏(新社会党副委員長・次期衆院選出馬予定)を中心とする左派は「話し合い」による主張をし、まったくかみ合わなくなる。

原氏を含め左派の主張はどうも弱く完全に思考停止している。「なぜ『他国が攻めてきたら』という仮定の話をするのか。その前にそうならないための話し合いが重要。」という一点突破で理論を展開する。たしかにそれは理想だけれど、現実的には話の通じない隣国があるし、そこまで広げなくても左派と右派でさえ話が通じていないという現実の状況を理解していない。

よく使われる理論かもしれないけれど、原氏は自分の家に鍵をかけずに外出できるのだろうか。全ての人間が顔見知りの小さな村なら可能かもしれないけれど、国や世界というレベルではそれは不可能。そのために対国内用に警察があり、対国外用には軍隊がある。一個人としてみれば原氏は気のいい人なのだけれど、こういう人は国会議員になってはいけない。他人の命を預かる立場になってはいけない。

また、左派は「過去の反省」や「再び軍国主義になってしまう」という主張をよくする。たしかに過去は軍国主義だったと思うけれど、現在は間違いなく軍国主義ではないし、過去はほぼ全ての国が軍国主義だった。という話をすると「他人がやるなら自分もやっていいのか。悪いことは悪い。」という話が帰ってくるのだけれど、それは時代性を考慮する必要があって、悪かったからそれの反省を踏まえてシビリアンコントロールを働かせている現代がある。現に田母神氏は政治によってきちんと更迭されている。

個人的には、宮崎哲弥氏も言っていたけれど、憲法9条を改正して「自衛のための戦力を保持すること」、「戦力は他国への侵略や脅威の破壊には使用しないこと」、「核の保持と使用を「放棄しない」こと」を明記する方が、最高の案ではないけれども、一番現実に即した案だという考えに至る。

過去の反省を踏まえて、未熟だった「軍国主義」が今は少しましな「民主主義(相互抑止)」になったように、今後理想の「話し合い主義(完全武力放棄)」というような世界に移行できるのかもしれないという希望は確かに持っている。でも、「民主主義」というルールの世界で一人だけ「話し合い主義」のルールで動いていると、世界が「話し合い主義」に移行するまでの間に日本は消えてしまう。

引用祭り

2008/11/27(Thu) Clip

過去の自分のdeliciousより。古いのもあるのでいくつかリンク先が無くなっていたりしますが、まあ。

朱雀門 著:山岸凉子

自分が100パーセント許されることを期待しながら、相手を1パーセントも許さない人間だったのよ。そういう人間が他人を愛せると思う?

altba | shinzo | shinzlog | look forward | entry archive (October 31, 2003)

そういう意味で、健全な上昇志向をもっている人には、僕が知っていることや、経験してきたことを、教えたり話すことを、これからも続けていくと思います。そして、それによって知らないことを逆に教えられる、という自分の学習を続けたいと思います。でも、僕は自分が学ぶので精一杯です。僕には、健全ではない上昇志向を基に、デザインを利用しつつデザインの力を馬鹿にするような意識の人に「そうではないんだ」という事を説いていくほどの余裕はありません。それよりも、「もっと良いものを。もっと先へ。もっと役にたつものを。」と思っている人たちと、デザインというものを考えて行く時間を大切にしたいと思います。よろしくお願いします。

助け舟|渋谷ではたらく社長の下ではたらく社長のアメブロ

素直さや謙虚さが足りないと、単に怒られていると思ったり、逆切れしたりして、助け舟をみすみす逃してしまうのです。

切込隊長BLOG(ブログ) – 「自分は要らない存在じゃないか」と悩んだ人と考えるトピック

その多様性こそが存在の証であって、一人の人間が、たとえ自分の存在に疑いを持ったとしても、そこに在る限り理由なく人は継続されるのである。

「おろかもの」の正義論 – drillhanz

事実の記述が非難として感じられるなら、非難しているのはわたしではなくあなたの良心だ。

風の帰る場所–ナウシカから千尋までの軌跡 著:宮崎駿

ただ、生き物っていうのは動態だからね。動いてる。静的な存在じゃないから。だから、同じ人間でもね、ものすごく愚劣な瞬間があったり、それからなんかやたらに高揚してね、あるいは実に思いやりに満ちたり、そういうふうに揺れ動いてるものなんですよ。

日本の不都合を追いかける – 深町秋生の新人日記

この世でもっとも罪深い行為は殺生でも姦淫でもないと私は思う。たぶん最悪の罪は無知でいることだろう。さらに自分が無知であるのをいいことに偏狭な正義をふりかざすやつが一番始末におえない。しかしこれは私自身も偉そうなことはとても言えそうにない。私も常に恥ずかしくなるくらいに無知だからだ。

「世界観、ビジョン、仕事、挑戦—-個として強く生きるには」講演録(JTPAシリコンバレー・ツアー2008年3月6日) – My Life Between Silicon Valley and Japan

僕が言いたいのは、「やりたくないことをやるな」ということでなくて、「意味のないことをやる」ということに対して、緊張感をもって生きる、そういう姿勢を持つべきだ、ということです。

404 Blog Not Found:義務教育は押しつけでもいいのではないか

社会があなたの個性を受け入れるとは限らない。闘争するにしても逃走するにしても折り合いの付け方は身につけといた方がいいよ。

昔話禁止令。|Tokyo Ochimasato Land

「今、僕が立っている世界は、ごみ箱の中さえ、子供の頃から憧れていたブラウン管の向こうにあるモノじゃないか」

自分メディア

2008/11/16(Sun) Diary

という、どこかで聞いたことがあるようなものが、僕は今一番欲しいです。水樹奈々のDVDも、新しいMacBook Airも、本もいろいろ欲しいのですが、それはその「自分メディア」があってこそ欲しい、と言えるような気がします。自分メディアというのは、新聞が発するような社会性のあるニュースではなく、友達の誰がどこに行ったとか、何を考えているとか、何を買ったとか、そういう自分を中心としたごく限られた人の発する情報だけが集まったメディアです。メディアではないのかもしれないですが。

ちょっと話は抽象的になりますが、「自分」という単語やその存在というのは、「他者」があって初めて存在するわけで、もし地球上に人間が一人しか存在しなかったら「自分」という概念は存在しないわけです。あたりまえだけど。つまり、自分を構成している要素として「他者」というのは結構な割合を占めているわけで、その上での自分らしさとか、独自性とか、そういう話になるわけです。

で、そういう他者を通じて社会性とか、公共性とか、大げさに言うと政治とかそういう者に気づいていくと思うわけで。今のネットの時代、個人が発信している情報は結構あるんですが、全てが細かく分散してしまっていて、それの網羅性とか一覧性は全くなかったりする。

そこで冒頭の自分メディアという言葉に戻るんですが、そういう膨大に個人が発信している情報の中から、自分とその発信者個人という繋がりでのみ情報をフィルタし、一覧性を持たせることが出来るものが欲しいなぁと思っているのです。技術的には可能なはずなので。一番近いのはFaceBookなのですが、ソーシャル性はいらないと思う。すべての他者との間に双方向の理解があるわけではないので。

裁判員制度はこの国の世論を進化させるのか?

2008/11/13(Thu) Society

「裁判員です」話していいのは…家族○、匿名ブログは△ – 朝日新聞

法律では「何人(なんぴと)も」とあるので、自ら公にしてもいけないし、知人が選ばれたことを誰かに話すのもダメだ。裁判員が事件関係者から危害を加えられないよう保護するための規定とされる。

最近はやりのブログ。日々の身辺雑記をつづる人も少なくない。筆者の素性が分からない場合は大丈夫そうだが、匿名のブログや会員制サイトでも、他の公開情報と照らし合わせて筆者が簡単に特定できる場合は危ない。

もっとも、この規定に罰則はないため、違反しても、罪に問われることはない。

以下、なるべく調べて書いていますが、誤りがあったらごめんなさい。約1年前に「斎戒沐浴」というエントリで裁判員制度に触れましたが、この制度については結構注目していて、日本の世論形成に大きな影響を与えるのではないかと思っている。

ちなみにこのブログは実名で書いているので、仮に選ばれても僕はこのブログでは裁判員に選ばれたということも、実際に裁判に参加して裁判員同士でどういった議論があったかも書いてはいけないことになる。でも、たとえば2chで書くとしたら一応書き込みだけでは個人を特定されないので大丈夫なのかな?

ただ、裁判自体は一般に公開されており傍聴することも出来るので、どういった裁判が行われ、裁判官・被告・検察の間でどういった議論があり、どういった判決が出たかを書くこと自体は問題ないはず。問題なのは、裁判官と裁判員の間でどういった議論が行われたのか、を書いてはいけないということらしい。

一年前のエントリでは「人を裁く」という負荷に民間人が耐えられるのかなという疑問を書いた。それはそれで今も感じている懸念なんだけれど、この制度にひとつ希望があるとすれば、この制度により民間人が社会や司法に参加し、一人ひとりが国や社会について関心を持つことで、この国の政治がより活発なものになるのではないか、という事。一方に流れやすいこの国の世論が複雑多様化することで、多少精度を上げて安定性が増すのではないかと願っているんだけれど。

文民統制

2008/11/10(Mon) Society

ほとんど石破氏が書いてしまっているけれど、個人的な補足。

石破茂(いしばしげる)ブログ: 文民統制

今回の問題は、田母神氏の行動とその後の政府の対応が文民統制の観点からどうであったか、の一点に絞って論ぜられるべきものです。

今回の田母神前航空幕僚長の問題は、「彼が発表した論文のような思想を持ち、その上で航空自衛隊の高級幹部になり、その思想を社会に発表し、政治が彼を更迭した。」ことまでを全て含めて正しい事だと思う。石破氏も言っているけれど、たとえそれが自衛隊の指揮官であれ総理大臣であれ、どういった思想を持っていても問題がないと憲法では定めている。もちろん、その職責に伴う行動をすることは前提。

田母神氏まではいかないにしても、過去を全肯定している自衛隊関係者は社会全体に占める比率よりも高いのではないかと思っている。田母神氏に対して「よく言った」と思っている自衛隊関係者も結構いるんじゃないかと思う。それは、きちんと職務を遂行するなら全然問題ない。逆に、こういった主張が鬱積し、彼らの中で自己完結した思想の進化が進んでしまい行動に起こされる方がよっぽど問題。

そして、若干彼らに対して理解を示してしまうのは、そのコントロールをする文民(軍人ではない者)が、政治家はもちろん国民も含めて、彼らの事を正しく認識し活用できているのかなぁという事。某番組でも言っていたけれど、イラク戦争のように文民が判断を誤る事もあるわけで(個人的には誤ったと思っている)。

死刑論もそうだけれど、こうやって異なる主張を持つ者同士がきちんと議論をしている状態が一番安定しているんじゃないかと思ったりする。「軍隊」ではなく「自衛隊」という言葉はなかなか的を射ている言葉ではないかと思っていて、その健全な思想のなかでぼくらがコントロールしていく事が大切なんじゃないかと思っているんだけど。残念ながら人間は、世界共通の思想を持てるようにはつくられていないのだから。