Posts Tagged ‘東京’

セルリアンタワーの最上階にて。

2007/09/15(Sat) Diary

まあいろいろ転機の時なもんですから、ふと思い立って17才の時からお世話になっている(と僕は思っている)T夫妻とご飯を食べた。最初は普通の居酒屋でぽつぽつと話をして、2件目にセルリアンタワー最上階の、外人さんがピアノの生演奏をしている、東京の夜景が見渡せるバーに行ってみた。

特にこれと言って真面目な話をした感じではなかったのですが、いろいろ話したり聞いたりしていると、ぼやっと考えていた事がきちんと言葉になって自分の思いがまとまった感じ。今のタイミングであえて良かったと思った。ありがとうございました。T氏と奥様。

人柱

2007/08/30(Thu) *Pickup, Clip

原発がどんなものか知ってほしい

原発は確かに電気を作っています。しかし、私が二〇年間働いて、この目で見たり、この体で経験したことは、原発は働く人を絶対に被曝させなければ動かないものだということです。

ちょっと長い文章ですが、時間を割いて読む価値はあるかと。僕自身は、原発は危険な物だと思うけど、人間が自重するか、それが出来ない場合で尚かつ代替策がないなら「しょうがない」と消去法的に肯定している。人間が未来永劫自重することはあり得ないと思っているので。代替えも、あるのでしょうか?そこは僕はあまり知識がありません。

原発は、どう考えても危険。安全だというなら、東京電力の社長室の隣に、文部科学省の隣に、国会の隣に原発を造ってそれを証明することができるだろうか?彼らは絶対に造る事ができない。そして福井や福島、新潟に造る。(国会の隣に作れば、首都機能移転問題は簡単に解決しそう。)

彼らは、地域振興になっているという。電源立地地域対策交付金や、関連産業・雇用などで、地域が潤っているという。潤っていると言えば聞こえがいいけれど、昨年度の福井県の県税収入1,041億のうち13%の137億が原発関連で、敦賀市職員の人件費53億のうち13%の7億が前述の電源立地地域対策交付金でまかなわれていて、振興の域を超えた、もう亡くす事が出来ない麻薬のようになっているのではないだろうか。(もちろん福井も悪い)。

何がうれしくて、中越地震の時、柏崎は地元が停電しているのに、地元の原発で東京に電気を送ったのだろうか。福井で生まれて、東京で働いていると、なんとも複雑。原発は、現代の人柱なのだろうか。なんだか共食いをしているような心境に陥る。

Re:原発がどんなものか知ってほしい

必要があって今ある。それは確かに自分が生まれる前から自分の知らないうちに造られたものかもしれません。でも当時それらを動かし始めた人たちは少なからず未来の為に、恐らくは当時子供であり、今は大人になった我々の生きる時代の為にと思って原子力発電を始めた部分もあると、私は思います。

そして、現在、実際にそれに支えられている現実がある。

「原発がどんなものか知ってほしい」に対する検証・反論をまとめたページ。この記事の他にも原子力に関するFAQなどかなり知らなかったことを知ることが出来る。原文は挑戦的なので、僕が読んでいても大げさな表現が多い(事実関係の誤りなどはわかりませんでしたが)。そして、結果的に反原発思想によって支えられた文章になっている。「Re」の文章は、ただ反論しているのではなく、理想と現実を見極めて、現状可能な手段で後生にバトンをつないでいこうという意志を持った文章に読めた。

ただ、所々「Re」にも脆弱な部分が見え隠れする。JCO事故の件を、想定していなかった出来事だと定義しているけれど、他の事案と違ってそういうケースが発生した時のリスクが極めて高いと言うこと。麦茶と間違えてそばつゆを飲んだのとは訳が違う。

「アメリカで原子力発電が再開されるように、現実にこの世界を支える為に、まだ原子力は必要なエネルギーだと思います。だから続けるんです。」と「Re」の著者は語る。リスクは高いが唯一の選択肢である原子力というものをきちんと人間の制御下に置き利用しようという意志が強く感じられ、現に僕は彼らに支えられて、彼らの造った原発からの電力でこの文章を書いている。

最初の僕の文章では、そういった現実的視点からの消去法的肯定論者であるということ、そのリスクを福井や福島や柏崎などの地方が偏って負担し、補助金によって抜け出したくても抜け出せなくなっている状況を、釈然としなくても受け入れなくてはいけない、リスクを負っている福井生まれの、そしてその恩恵を受けている東京在住の一人として書たつもり。

僕は数年か数十年後か分からないけれど、福井に帰りたいと思っている。僕は、原発が安全に運用されることを望むし、それを運用している人たちに感謝こそせよ反感は持たないけれど、心のどこかで納得しきってはいないのだ。

東京駅

2007/08/11(Sat) Diary

東京駅に停車中の新幹線

実家に帰るために東京駅へ。帰省ラッシュがすさまじくて、いつにもまして人がいっぱい。僕は東京駅のこの雑踏が好きで、それぞれの乗客が身勝手に動き回っている中を、駅側が遅延とかのイレギュラーさえ掌握してオペレーションしているのを眺めていると、かっこ良ささえ感じる。

5月、6月、8月と、最近なんだかんだで頻繁に帰ってるけど、それまであまり帰ってなかったのでちょうどいいのではとよく分からないことを思いながらひかりにのって福井へ。

人生を変えたコメント

2007/07/24(Tue) Diary

久しぶりにiwalogへの被リンク(=iwalogにリンクしてくれているサイト)を調べてみたら、意外な人のブックマークに登録されていることを発見。その人に読まれていると思うとなんか自由にかけない気がしてきた(汗。

僕が前職の時、今の会社の社長が求人雑誌の表紙に載っていたので買ってみた。その雑誌に、当時人事にいたその人の人事担当者としてのコメントが載っていて、何を言っていたのかはもう忘れてしまいましたが、そのコメントを読んでから今の会社が「地元の人が東京で作ったIT会社」から「働いてみたい会社」に変わった瞬間でした。

会社に入ってから、たまにすれ違う程度でほとんと仕事で絡んだことはないのですが、一度だけ面談したことがありました。その時は、あまりいい状況での面談ではなかったのですが、いろいろと諭していただきました(怒られていたのかもしれませんが)。

エントリのタイトルはちょっと大げさでしたが、一方的にそういう経緯もあったので、なんとなく素直にその人とは話ができたように思います。しかし、ほんとに思わぬ人に読まれてる。とはいえ、赤裸々に書き続けているし、読まれていることを意識して書く内容を制限できるほどおりこうでもないので、相変わらずでやってきます。

新潟県中越沖地震

2007/07/16(Mon) *Pickup, Diary

このブログは自分が思っているよりたくさんの人が読んでくれているので、主に東京に来てから知り合った人のために少し前置きをすると、僕は前職の仕事で、柏崎に2002年12月から2004年3月まで約15ヶ月ほど住んでいたことがあります。このブログを始めたのも柏崎にいる時で、いい仕事をさせてもらったし、いい人達にも出会うことが出来ました。幸い僕が住んでいる時は平穏だったのですが、僕が石川に引っ越して4ヶ月後の2004年の7月には豪雨同じ年の10月には中越大震災(その日のiwalog)、2005年には豪雪と、何かと大変な事が続いてきました。

朝からぼけっと本を読んでいたら、東京でも少し、そしてちょっとだけ長い間揺れを感じました。サイトに表示された震度分布が、中越地震の時のそれと似たような規模と震源地だったので、もの凄く嫌な予感がして、でもそれ以外情報は得られず、気持ちの悪い不安な時間を過ごす。

地震発生直後の震度

メールで連絡を取ってみたら幸い僕の知っている人たちはみんな無事だった。でも何名かは亡くなっているというニュースも入ってくる。続々とアップされるニュースサイトの写真を見ていると、何十回も降り立った駅で電車が脱線していたり、何十回も通った路線が土砂崩れで埋もれていたり、高速が隆起していたり、みているのがつらい。

脱線した電車崩れた崖と土砂に埋もれた線路

幸か不幸か選挙戦の最中ということもあり、外から見ている分には対応は素早かったように思う。演説するよりはるかに訴求力の高い選挙活動だからねという皮肉もありますが、とりあえず迅速に対応してくれれば何でもいいです。一概に比較できることではないですが、何度も天災を経験しているからか、被害も少なかったように思うのがせめてもの幸い。関係ないことと思って東京でこのブログを読んでいるあなた。あなたが東京でこのサイトを見るために消費されている電気の10%は、柏崎の原発でまかなわれているのですよ。次は我が身です。

こういう時はもうなにもできないのが少しもどかしいですが、自分達の作ったサイトが少しは役立っているのを見ると、保守・改良を続けてくれている某氏達に感謝するのはもちろん、ユーザビリティなんとかで1位をもらった時よりもはるかに、自分たちのやったことが少しは人のために役立てているのではないかと感じられました。停電が続いてる所もあるようですが、一日も早い回復を願います。

木村太郎からの返信

2007/07/14(Sat) *Pickup, Diary

その昔、僕がグレて(?)学校に行っていなかった時、僕はフジテレビのニュースJAPANをよく見ていました。安藤さんと川端さんが司会で、木村太郎がコメンテーターとして出ていました。ある日の特集で、「不登校」を取り上げていました。自分でも社会的に自分がそのカテゴリに入れられているのだろうという自覚はあったので、興味津々で見ていたら、いろんな不登校の子が出ていて、それは不登校という一つの結果で語るにはあまりにも複雑で多種多様な理由を持った人たちでした。

今はもう何を言っていたのか忘れてしまいましたが、木村太郎が僕の心にグサッとくる一言を言っていて、ぼくはいてもたってもいられずその当時ニュースJAPANのサイトで公開されていたアドレスにメールを送りました。たしか、僕も不登校なのですが、僕の感じていることととても近い内容で、木村さんこれからも頑張ってくださいとか、そんな内容だと思う。たぶん当時15才とかそれぐらいだったんじゃないかと思う。

数日経ったら木村太郎から返事が来て、メールをありがとうということと、そういってくれると放送して良かったということと、君もこれから頑張ってくださいとかそういう事だったと思う。そのメールに返事をしたけど、それには返信はなかった。

なぜ突然こんな事を書いたかというと、とある本を読んでいたら、あとがきにファンレターには必ず返事を返しますと書いている作家がいたので、そういえば昔木村太郎が返事をくれたなと思い出したからで、そのメールはWin95のブルースクリーンにより抹消されてしまったのですが、僕の記憶にはしっかり残っているし、あのとき福井で不登校だった僕はいろいろありましたが東京でなんとか頑張っていますよと、木村太郎に伝えたくなったからなのであった。あれからもう10年です。

菊の花の中で

2007/06/09(Sat) *Pickup, Diary

葬儀(Wikipediaより)

葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理するか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。

あまり人前で書くような話ではないことは分かってるのですが、いろいろなことを書いてきたこのブログでこのことだけ書かないのもなんか変な話だし、自分の中でもやもやと思っていることを一回整理もしたいので、少しだけ書かせてください。ものを書くといろいろと自分の中で受けとめることが出来て、そのうちこのエントリと同じようにだんだん心の下の方にいって居場所を見つけてくれるので、ちょうどいいのです。

月曜日の朝に母方の祖父がなくなったと母から聞いたときは、詳しいことが分かっていなかったこともあって、そうですか、という感じだった。福井に帰って来いというので、とりあえず会社に行って、帰らせて欲しいという話をして、目の前の仕事を片付けていたのですが、正直上の空で、決まったことを決まったようにただただ処理して、新幹線に乗って一ヶ月前に帰ったばかりの福井に帰った。なぜか、一日中ずっともの凄く胃が痛かった。福井駅で妹と合流して、タクシーの中で少しだけ話して、家に帰って、よく覚えていないけど気づいたら寝ていた。

明くる日の昼に式場に着いて、母と母方の叔母に会う。一ヶ月前の連休に帰った時に数年ぶりに会った叔母との次の再会が、こんな短い間でこんな理由で会うとは、世の中とは皮肉なものだなと思った。式場の二階にいったら祭壇があって、祖父の写真が飾られていた。祭壇には、僕の名前もあった。祖父が僕の両親の結婚式に出たときの写真らしく、僕が始めてみる顔だった。自分の記憶があるうちで、会社関係の人の葬儀に出たことはあるものの、親族の葬儀は初めてだったので、祭壇に飾られている祖父の写真に全く現実感はなく、ただ、これから本当に葬式をやるんだなと思った。

まだ誰も来ていないので、式場の近所をぶらついて、コンビニを探しても全然なくて、やっと見つけてコーヒーを買って帰っていたら、祖父が入った棺をのせた車が着いたところだった。久しぶりに会う親戚と少しだけ挨拶をして、喪主の叔父に祖父の顔を見せて欲しいとお願いして、さっき行った祭壇に向かう。途中で「あれゆうちゃんじゃない?」とこっちは全く覚えていない親戚(今回ほとんどそうだったけど)と挨拶を少しして、祖父の孫の祐輔ですと挨拶したらあらーとかいわれた。

祭壇の横の花をどけて、棺の横に立つ。叔父が棺にかかっている布を少しだけよけて、棺の蓋を開けると祖父の顔があった。菊の花に囲まれた祭壇の小さな棺の中で見た祖父の顔は、僕が中学校まで毎年夏休みと正月に行ったときの祖父が、茶の間の床で寝ているときの顔と何も違わなかった。ただ、少しだけ色が白かった。じっと見ていられなかったので、手を合わせて目を瞑った。それでも、死んだとは思えなかった。ただ寝ているだけのようで。

祭壇に一番近い最前列の席に、祖父の孫が僕を含めて八人座った。今回僕が初めて会う従兄弟もいて、その中で僕は一番年上で、みんな小さい頃に遊んだ顔とは全然違って(何も変わってないのもいたけど)、そうかじいちゃんの孫は八人もいるのかと思った。そして、いつかこの八人の世代だけになる時も来るのかなと思った。最後尾の入り口で喪主の叔父とその奥さんの叔母と祖母と母と叔母が来る人に挨拶をしている。そこで初めて泣く声を聞いた。焼香をしに来る人に頭を下げつつ、通夜が始まるのを待った。

通夜の間中唱えられるお経を聞いていると、不思議と無の心境になる。なにも、なーんにも考えなくしてくれる力がお経にはあるのではと思う。一時間近くの通夜の終わり、喪主である叔父が、これまで聞いたことのない声で挨拶をするのを聞いて、ああ、祖父は死んだのだなと、初めて思った。

用意された晩飯もあまり食べる気がしなかったので、少しだけ箸をつけて夜の、真っ暗な式場のまわりをすこしぶらぶらした。涼しかった。親族の控え室に帰ると、僕と妹はいったん家に帰ることになっていたのだけど、わがままを言って母や叔父たちと一晩残らせてもらうことにした。帰ってもどうしていいのか分からなかったし、寂しかったのかもしれないし、結局よく分からなかったけど、今帰ったらずっと後悔してしまいそうで。

結局朝まで起きていた。祖父の姉が一晩中お経を唱えていた。父と数年ぶりに少し話をした。いろんな人とも話をした。祖父のこととか、明日のこととか、東京での事とか、いろいろ。隣では祖父が眠っている。叔父の娘だから僕からすると従姉妹と、四時くらいまで話をした。彼女もよく分からないと言っていて、同じ気持ちだった。それぞれの家で一番初めて生まれた子供同士感じていたことや、逆に長男と長女故の違いとか、なんかそんな話をしてた気がする。あと、学校のこととか、仕事のこととか、そんな事。

七時頃少しだけ横になったけど結局眠らないまま朝が来て、告別式が始まる。お焼香を三回して、再び叔父が挨拶し、出棺の時。みんなが棺のまわりに集まって、花を入れていく。みんなが泣き出し、僕も初めて涙が出た。僕も花を入れ、祖父の顔に少し触れた。触れた瞬間ものすごく冷たくて、また涙が出た。ただ、涙が出た。叔父と何人かと棺を持ち、車にのせる。棺はとてもとても重かった。

火葬をするため、実家に向かう。七、八年ぶりに見た実家の風景は、なんだかとても小さく見えた。夏休みに遊びに行って帰るときに見送ってくれた玄関を見たら、また少しだけ涙が出た。火葬場で、最後の手を合わせ、火が付く。母が火の見える所まで行くときに泣いてよろけたので、何の弾みか僕も母を支えて奥まで行って、祖父を燃やす火の音を聞いた。なんで最後にこんな熱い火で焼かれなければならないんだろうとか、そんな事を思った。火葬場を出て、この何日かで一番たくさんの涙が出た。しばらく近場で親戚中でご飯を食べて、骨上げ。棺を持ったときにはすごく重かったのに、ものすごく軽くなっていた。

全てが終わった後、実家のまわりを歩いた。隣の洋服屋や、小さな用水路や、夏休みにお祭りに行った神社や、田んぼや、魚を捕った川や、祖父の仕事場や、役場とか。ずっと聞こえるカエルの鳴き声や、空を飛ぶ鳥や、久しぶりに踏む土や、山のにおいがする涼しい空気とか。風景は何も変わっていなかったけど、小さな時にそこで遊んでいた自分はずいぶんと変わったものだなと思った。

通夜から24時間もたたずに、祖父はあっというまに骨になり、とても小さな箱に入ってしまったけれど、これでいいんだろうと思う。何もせず、ずっといてもいいと言われればずっといてしまうと叔父が言っていた。やることがたくさんあって、気づいたらあっという間に小さな骨壺に収まって、感慨にふける暇もないことが、残った者が生きていくための最善の策なんだろうと思う。

結局祖父ってどういうもので、死ぬってどういう事で、生きるってどういう事で、親戚とか親とか僕ら八人の孫たちってどういうものか、何にも分からなかった。ただ、言葉には出来ないけど、いろんなものを見たし、いろんな事を知ったし、いろんな事を学んだし、いろんな事が大切なんだと知った。まだあやふやなそれらのことは、今後必ず生きていく糧になると思うし、そういういろんな事を最後に教えてくれた祖父のことをとてもありがたいと思った。

「東京タワー」の彼女

2007/05/29(Tue) Clip

放送されてから約10年、番組中書いていた「10年後の紀子さんへ」の手紙が着く頃となった。

小説「東京タワー」の彼女は加藤紀子と言われている。リリー・フランキーとの交際は平成12年3月24日発売のフライデーに掲載された。その約1ヶ月後に加藤紀子は自費でフランスに留学。3ヶ月後一時帰国の際に結婚願望と相手との仲がギクシャクしだしている事を、あるフリーペーパーに書いている。

また小説ではリリー・フランキーは翌年の正月ロンドンに行き、帰国後「おかん」の入院時、唐突にすでに別れてしまっているおかんと仲の良い「彼女」の事が出て来る。そして4月「おかん」亡くなる。加藤紀子の本人の希望していなかった2年目の留学は、事務所の社長命令で、費用は事務所から出ていたと言われている。

人が物語を紡ぐのは、自分たちの人生と過去を、変えたいと願うからかもしれない。

東京タワー 表紙
東京タワー
オカンとボクと、時々、オトン
リリー・フランキー (著)

東京タワー ジャケット
東京タワー
オカンとボクと、時々、オトン
出演: 田中裕子, 大泉洋

「ビジネス理論」一夜漬け講座

2007/05/07(Mon) Book

「ビジネス理論」一夜漬け講座 表紙
「ビジネス理論」一夜漬け講座
渋井 真帆 (著)

休み中に読んだ本をぽつぽつとアップ。東京⇒福井の新幹線で読了。「ブルーオーシャン」とか「ザ・ゴール」とかの要所要所をまとめた感じ。何冊かはフルで読んだ本も含まれていて、思い出しながら読んだり。いろいろはしょられていますが、主要なところはかかれていたので、コレ読んで気になったのがあればきちんと読むのがいいのかも。

過去はほんの少し前まで、今その瞬間だった。

2007/05/06(Sun) Diary

福井に帰った最初の日の夜は、日本酒を飲み過ぎてもう東京に帰らずにずっと福井にいたいと思っていたのに、福井を発つ前の日には、カフェで東京に戻ってからの日々のことをいろいろ整理したり考えたりしていた。

前の会社の人たちだったり、前の会社を辞めてから知り合った人だったり、中学校以来十数年ぶりに再会する保育園の時からの幼なじみだったり、ずいぶん久しぶりに会う家族(犬とハムスター含む)だったり、東京に行く前によく行っていたカフェだったり。ある時期、同じ時間を共有していた人たちと過ごす時間や空気は、勢いや瞬間ではない、とてもとても幸せな時間。

東京での日々は、過去の日々がそうであったように、瞬間瞬間で生きて、考えて、後から見ればもっとこういう事も出来たんじゃないかと思うことはとても多くて、まだあまり楽しいというところまではいっていなくて、どちらかというと不安の方が大きい。でも、過去の自分を反面教師に、過去と同じシチュエーションに出会ったときは、以前より賢明な判断が出来ていると思うし、過去と同じ過ちはだいぶん減らせている(と思う)。

前の会社の人たちは、残っている人やそれぞれの道に進んだ人も含めて、とても充実していて素敵な笑顔だった。幼なじみの彼女は、自分たちが二十代になっているという相変わらず実感がない現実を共有しながらも、社会人一年目を歩き出していた(そしてとても綺麗になっていた。)妹にはよく分からない心理テストを受けさせられたけど、もうすぐ社会に出る時期が近づいている。犬のコロは相変わらず耳をかいてくれとせがみ、3代目のハムスターはおとなしいやつだった。

福井でのそれらのことは、夢中だった日々から少し時間が経っているからそう思えているのであって、そのまっただ中にいたときは、今東京で生きているのと同じようにあまり周囲も見えず、楽しさにも気づいていなかった。福井の懐かしい人たちとの間に流れる幸福感もあるし、東京の今の人たちとしか味わえない充実感もある。そして、それは必ず繋がっているし、その時の思いが未来をつくる。福井に帰って感じた、今をきちんと生きることが今後の充実になるのだという思いを胸に、東京で生きていきます。さぁ仕事仕事!