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Mashup Seminar in FUKUI

2009/01/17(Sat) Event

Mashup Seminar in FUKUI
Mashup Seminar in Fukui

「Mashup Seminar in FUKUI」に行ってきた。会場に入った瞬間、「あ、なんか空気違う」と感じてしまって、その勘は当たっておもいっきりエンジニア向けの内容だった。イベントが悪いと言っているのではなく、ターゲットじゃなかったなと感じた。なので結構客観的に過ごした。イベント後の交流会にほとんどの人が残っていたので、エンジニアにはいいイベントだったのだろうと思う。

行く前に思っていたテーマが、「マッシュアップとか福井に必要なの?」ということ。ネットは好きだし、新しいテクノロジーが出てくることはとても楽しいと思う。でもそれを、どこかで「進化」ではなく飽きやすい人間の志向の「変化」だとか、それで福井の人の暮らしは何か変わるの?と思っている自分も同時にいるので、その変を考える時間になればと思っていた。

グローバルに考えようというという話とか、リクルートがマッシュアップを自社のビジネスに活用しているという話はたしかに理解できる自分もいるし、そういう話は好きだ。でも現実には福井で生活している僕の親の世代とか、限られた商圏で商売をしている会社には全然関係ないと思う自分もいる。「分かる人だけ分かっている」ような感じがどうも離れなかった。限られた人だけで盛り上がっている技術ってどうなの、という。

特に「世界はプログラミングできる物とプログラミングできない物の二つに分けられる」というキーワードには、悲しくなった。食べ物を作っている人もいれば、洋服を作っている人もいて世界は回っている。世界は二元論で語れるほど単純ではないし、安易な二元論は世界を疲弊させる。講演者は食べ物の生産なども含めた広義の意味でプログラミングという言葉を使っているようには思えなかった。

プログラミングを否定しているのではなく、自分の好きなものが最上位であるというような雰囲気がなんとなく理解できなかった。僕はウェブサイトを作ることやコーディングや情報設計がとても好きだけれど、それが最上は思ってなくて、それを使う人や利用する人がいて初めて存在できると思っているので、どちらかというと下位の事をしてると思ってる。

でもまぁ、この辺は個人の志向の話かもしれないです。医療ドラマでよくある、「臨床医は目の前の患者しか救えないが、研究医は未解決の病気の治療方法を発見することで数千人の患者を救える」というような話で、僕が前者をやりたいと言うだけの話か。どっちが大事とかではなく、両方必要なので。

WordPress移行メモ

2009/01/05(Mon) IT

移行に関する覚え書き。

テーマ
標準の「WordPress Default」をベースに自作のXHTML+CSSのテンプレートを適応する形でカスタマイズ。The Yahoo! User Interface Library (YUI)のReset CSS、Base CSS、Fonts CSSを利用してみた。レイアウトと文字サイズはだいたい調整したので、今後ゆっくりデザイン。

プラグイン
Akismet

スパム対策の標準プラグイン。

FeedLogger
管理画面のダッシュボードでRSSフィードの登録数を確認できる。

SimpleLife
今回のリニューアルでやりたかった、ライフストリーミングのプラグイン。トップページの右側に表示されているやつです。ライフストリーミングというのは、ブログやFlickr(写真)、delicious(ソーシャルブックマーク)、twitter(ミニブログ)など、ユーザがいろんなネット上のサービスで発信している情報をすべて統合して時系列に表示する、サービスというより表現方法かな。

このブログのライフストリーミングでは、僕がtwitterでつぶやいた言葉や、iPhoneで撮影した写真、deliciousにブックマークした記事を全て時系列に整理して見ることが出来ます。すべてのフィードを統合したライフストリーミングフィードも用意したかったのですが、このプラグインでは出来なかったのでまたリサーチして実装します。

Simple Recent Comments Widget
標準のコメントはいろいろと表示される情報が多いので、投稿者名だけ表示するために使用。

Simple Tags
過去の記事に自動的にタグを付けたり出来るプラグイン。1,000件の過去記事に一つ一つタグを打つのはしんどかったので使用。

Trackping Separator
WordPressはトラックバックとコメントをひとまとめにして表示してしまうので、分けるために使用。

WP-PageNavi
ページ送りを表示するために使用。

WP Super Cache
記事を投稿する度にHTMLを生成するために閲覧側の表示が速いMovableTypeと違って、WordPressはユーザが見に来る度に動的にページを生成するためにちょっと重い。使用しているのは「さくらのレンタルサーバスタンダード」なのですが、ちょっと気になってしまうくらい重かったので、このプラグインでキャッシュを生成。

今後ももっといろいろ漁ってみます。

ベーシックインカムは成立するのか

2008/12/23(Tue) Society

「ベーシック・インカム」を支持します – 評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」

どこが特に気に入ったかというと、「個人単位」というところと、「働かなくてもいい」というところだ。今日の生き方の多様化を考えると、主として、世帯を単位とする現在の各種の税制や社会保障制度などは、婚姻の形態をはじめとして、個人の生活に不当に介入している。

また、人には、働かない自由もあっていいだろう。少なくとも、働かなくても、生存できるくらいの収入が保証されていれば、クビが怖くないから、個々の労働者が、もっと自由な働き方ができるし、雇い主と、より対等に交渉できるだろう。

読んだ直後は、公共事業で間接的に国民にばらまいているお金を直接的に分配すると言う意味でいい仕組みなのかなぁと思ったんだけど、それで社会はまわるのかなぁという不安が出てきた。おそらく経済は理屈的にまわる計算を立てることは出来ると思うんだけれど、そこで実際に働く人間がそれについて行けるのかなぁと。

以下ちょっと言葉が乱暴ですが、文脈を通してご理解下さい。世の中にはあまりやりたくないきつい仕事というのもあると思う。例えば、屠殺をする仕事だとか、ゴミの収集だとか、ペットの処分をする保健所だとか。もちろん誇りを持ってやっているヒトもいるのは理解できるけれども、同じ収入がもらえるほかの楽な仕事があったら、そっちにいってしまうのではないか。

そういう仕事に従事している人が「同じ収入がもらえるほかの楽な仕事」としてベーシックインカムをあてにした場合、「社会構造上必要だけれどあまりやりたい人がいない仕事」に人が集まらなくなり、社会が回らなくなり外部委託(国外や外国人労働者)することになると、社会運営のコストが増えてベーシックインカムの財源に影響するのではないかと。

アルファブロガーとか、経営コンサルタントとか、プログラマーとかディレクターとか、そういう職種だけで社会が成り立つのなら成立する仕組みだとは思うけれども、社会全体の従事者数からするとけっして多くはないわけで、その人達を食わせている側が崩壊するのではないかと思ったりするんだけれど。

螺旋の道

2008/12/09(Tue) Diary

「世代」というくくりで物事を考えることはあまり好きではなかったんですが、最近ひしひしとそういうものを感じる。辞書では約30年を1世代と数えると記されていたけれど、現実は10年程度で社会をどうとらえるか、社会の中の自分をどうとらえるか、という平たくいえば価値観が変わっているように思う。

以前からぼやっと感じていたことが年金に関する議論を眺めていた時に明確になった。例えば今、5歳の子供と、25歳の僕と、45歳の社会人という3人がいた時に、この3人は同じ2008年という時代を生きているけれども、違う時代を生きているのだという事に気づいた。それは人生をスタートしてからの時間の違いであり、積み上げてきたものの違いであり、残りの時間の違い。

5歳の子供は社会というものをまだ認識していないかもしれない。25歳の僕はこれから自分と社会が共に楽しんで生きていける折り合いがどこにあるのかを探しているのかもしれない。45歳の社会人は自分としての芯が定まり子供も自立してさあどう自分の終演に向かっていこうかと考えているのかもしれない。

その3人の前に同じ問題と選択肢が提示されたときに3人が選ぶ答えは、思想信条や環境が同じであっても、同時代性を保持していたとしても、自ずと異なる事が自然なのではないかと思う。そしてそれはどれも正しいし、どれも間違っていないように思う。何か意見の相違があったときに、それを闇雲に時代や世代のせいにはしたくないけれども、その人達が見ているゴールまでの距離が違う以上、必然なのではないかとも思う。

数世代単位でみた人間の長期的変化が螺旋的変化であるとするならば、同じ轍を踏んでいるように見えることでも世代という要素によって微妙に異なるものであろう。おそらく人間は基本的には1世代単位でリセットされていて、どんなに歴史や技術の積み重ねがあったとしても同じ事を繰り返さないと理解しないのではないか。

螺旋の道は、4〜5世代程度で同じ位置に戻るというのが個人的な感触。達観でも諦観でもなくその流れであることを見極めて、仮に自分より後に生きる人たちを見て「同じ轍を踏もうとしている」と感じても「再度挑戦している」と捉えられるようになりたいし、何か言葉を求められたらその観点での言葉を返したい。それはもうほとんど、希望というような境地であるのだけれど。

戦争を起こさないために

2008/11/30(Sun) Society

今日のそこまで言って委員会は国会招致以来初のテレビ出演となる田母神氏(航空自衛隊前航空幕僚長)に加え、松島悠佐氏(陸上自衛隊元中部方面総監・阪神淡路大震災時の最高指揮官)、川村純彦氏(海上自衛隊元海将補)と陸海空の方々が揃って、90分全て使っての国防スペシャルでかなりおもしろかった。

議論は必然的に自衛隊の存在意義に進んでいくんだけれど、右派と左派(あまりこの言葉は好きではないですが)が「戦争を起こさないために」という共通の理念の元全く異なる主張を展開する。田母神氏など自衛隊経験者や右派は、抑止力としての軍隊を持つ事での相互抑止による実現を主張し、原和美氏(新社会党副委員長・次期衆院選出馬予定)を中心とする左派は「話し合い」による主張をし、まったくかみ合わなくなる。

原氏を含め左派の主張はどうも弱く完全に思考停止している。「なぜ『他国が攻めてきたら』という仮定の話をするのか。その前にそうならないための話し合いが重要。」という一点突破で理論を展開する。たしかにそれは理想だけれど、現実的には話の通じない隣国があるし、そこまで広げなくても左派と右派でさえ話が通じていないという現実の状況を理解していない。

よく使われる理論かもしれないけれど、原氏は自分の家に鍵をかけずに外出できるのだろうか。全ての人間が顔見知りの小さな村なら可能かもしれないけれど、国や世界というレベルではそれは不可能。そのために対国内用に警察があり、対国外用には軍隊がある。一個人としてみれば原氏は気のいい人なのだけれど、こういう人は国会議員になってはいけない。他人の命を預かる立場になってはいけない。

また、左派は「過去の反省」や「再び軍国主義になってしまう」という主張をよくする。たしかに過去は軍国主義だったと思うけれど、現在は間違いなく軍国主義ではないし、過去はほぼ全ての国が軍国主義だった。という話をすると「他人がやるなら自分もやっていいのか。悪いことは悪い。」という話が帰ってくるのだけれど、それは時代性を考慮する必要があって、悪かったからそれの反省を踏まえてシビリアンコントロールを働かせている現代がある。現に田母神氏は政治によってきちんと更迭されている。

個人的には、宮崎哲弥氏も言っていたけれど、憲法9条を改正して「自衛のための戦力を保持すること」、「戦力は他国への侵略や脅威の破壊には使用しないこと」、「核の保持と使用を「放棄しない」こと」を明記する方が、最高の案ではないけれども、一番現実に即した案だという考えに至る。

過去の反省を踏まえて、未熟だった「軍国主義」が今は少しましな「民主主義(相互抑止)」になったように、今後理想の「話し合い主義(完全武力放棄)」というような世界に移行できるのかもしれないという希望は確かに持っている。でも、「民主主義」というルールの世界で一人だけ「話し合い主義」のルールで動いていると、世界が「話し合い主義」に移行するまでの間に日本は消えてしまう。

告知せず

2008/11/17(Mon) Movie

夫「死ぬ準備をして待てって言うんですか。死ぬ日を、指折り数えて待てって言うんですか。あんたそれでも医者かよ。」

妻「もうやめて。先生に当たったってしょうがないじゃない。人間は誰でも、いつかは死ぬの。それが早いか遅いかってだけ。訳の分からないまま死んでいく人だっているのよ。でもあなたは違うわ。自分は何の病気で、何と戦えばいいのかちゃんと分かってるの。他の病院で見てもらいたいなら、そうしましょう。納得いくまで、ちゃんと付き合うから。あなたの思うとおりにすればいいじゃない。だから、ちゃんと戦いましょう。最後の最後まで、ちゃんと生きましょう。」

テレビ朝日で放送されたがん告知のドラマ。たまたまがんの緩和ケアについての本を読んだばかりだったので見たんだけど、号泣。ドラマ自体の話でいうと、滝沢秀明がちょっと浮いていて山田孝之とかの方がいいんじゃないかと思った。がんを患った高畑淳子が亡くなるシーンでも、なんで息子役の滝沢より見ている僕の方がわんわん泣いているんだ、とどうでもいいことを思った。

冒頭に引用したのは、自分の妻には告知せず自分の患者にがん告知をした渡哲也に対して怒りをぶつけた夫に、妻の高島礼子が語った言葉。その後、「先生、告知して良かったです。」と続く。人はいつか死ぬんだと開き直って、残りの人生を精一杯生きようというような考え方で、告知された大多数の人はそういう道を辿るのではないかと思ったりする。

それはたぶん端から見ると一番手っ取り早いプロセスに感じるんだけれど。ここからは完全に想像だけれど、人間は、年を取れば取るほど欲が増していく生き物なんじゃないかと思う。不老不死を願うわけではなく、子供の成長を見たい、孫の成長を見たい、出来うるなら可能な限り、それを見届けたい、という欲が大きくなっていった時期に、いきなり「残りの人生を精一杯生きる」という考え方に転換するのはかなりしんどいことなんじゃないかと、勝手に想像する。

自分はと言うと、ガンになったら告知されて何で死ぬのかをハッキリと認識して、そのプロセスを出来うるかぎりこのブログでも何でもに書き残していきたいし、自分に近しい人がそうなったとしても告知してしまいたいと思う。だけどそれは、自分一人だけではそういう重いものを抱えきれない事への逃げから来ている答えだと思うので、正直まだ分からない。

自分メディア

2008/11/16(Sun) Diary

という、どこかで聞いたことがあるようなものが、僕は今一番欲しいです。水樹奈々のDVDも、新しいMacBook Airも、本もいろいろ欲しいのですが、それはその「自分メディア」があってこそ欲しい、と言えるような気がします。自分メディアというのは、新聞が発するような社会性のあるニュースではなく、友達の誰がどこに行ったとか、何を考えているとか、何を買ったとか、そういう自分を中心としたごく限られた人の発する情報だけが集まったメディアです。メディアではないのかもしれないですが。

ちょっと話は抽象的になりますが、「自分」という単語やその存在というのは、「他者」があって初めて存在するわけで、もし地球上に人間が一人しか存在しなかったら「自分」という概念は存在しないわけです。あたりまえだけど。つまり、自分を構成している要素として「他者」というのは結構な割合を占めているわけで、その上での自分らしさとか、独自性とか、そういう話になるわけです。

で、そういう他者を通じて社会性とか、公共性とか、大げさに言うと政治とかそういう者に気づいていくと思うわけで。今のネットの時代、個人が発信している情報は結構あるんですが、全てが細かく分散してしまっていて、それの網羅性とか一覧性は全くなかったりする。

そこで冒頭の自分メディアという言葉に戻るんですが、そういう膨大に個人が発信している情報の中から、自分とその発信者個人という繋がりでのみ情報をフィルタし、一覧性を持たせることが出来るものが欲しいなぁと思っているのです。技術的には可能なはずなので。一番近いのはFaceBookなのですが、ソーシャル性はいらないと思う。すべての他者との間に双方向の理解があるわけではないので。

二人の盟友

2008/11/12(Wed) Society

筑紫氏の死去に対する久米氏のコメントが、「久米宏のテレビってヤツは!?」で流れていた。ラジオでちょっとコメントしたのは聞いたんだけれどあまり詳しく触れていなかったが、さっきのテレビでは目頭を熱くしながら語っていた。

番組での発言とか彼らのスタンスはちょっと横に置いておいて。同じ18年半という長い間、隣り合わせに近い時間帯で同じ報道番組をやれた彼らは、仕事仲間というか同士というか、そういう関係としてとても恵まれていたんだろうなぁと思う。

今のようにインターネットがなく新聞とテレビが権力をふるっていた時代に、罪悪は別としてそのメディアをある意味では利用し、制限はあるだろうが自分の言葉で自分の主張をすることは、とても意義のある仕事だったんだろうと思う。

「ご冥福をなんて言えない。冥福されちゃ困る。生まれ変わってもう一回筑紫哲也をやって欲しい。」と最後に久米氏が語ったけれども、きっと彼はその後に、「そして、僕もまた久米宏をやりたい。」と言いたかったのではないかと、勝手に邪推した。仕事仲間としての彼らの関係が、ちょっとうらやましかったので。

空白の宰相 「チーム安倍」が追った理想と現実

2008/11/11(Tue) Book

空白の宰相 「チーム安倍」が追った理想と現実 表紙
空白の宰相 「チーム安倍」が追った理想と現実
久江 雅彦 (著), 柿崎 明二 (著)

「チーム安倍」は崩壊していない。はじめから実態として存在していなかった。それが、一年で幕を閉じた安倍政権の断面を取材、検証した率直な印象である。

道路特定財源、公務員制度改革、日本版NSC、防衛庁(当時)事務次官人事、松岡農水大臣の自殺など、安倍内閣が取り組んだ様々な理想とその現実の裏側を追いながら、「理想は高いが実行力のない安倍総理」を描き出している。中に出てくる細かい政治家のやりとりの真偽のほどは定かではないけれど、結果から見ると当たらずとも遠からずといった所なのかな、という感じがする。

壊してばかりでは何も進まないわけで、そういう総理の後に国の根本となる憲法と教育を持ち出してきた安倍元総理には、直近数人の総理の中では一番期待していた。歴代議員の家系であることも、安定した地盤があるが故に現実直近の課題にとらわれずに長期的な政策が出来るのではないか、と期待していた。まあ結果はあの通りなんだけれど。

直近のエントリで文民統制(文民(=政治家・国民)による軍隊の統制)について触れたけれども、文民統制よりももっと深刻なのは、文民による官僚の統制が出来ていないことなんだろうな。あからさまな死者数というのが出ないので軍隊に比べて目立たないけれども、軍隊によって亡くなった人の数と比べた時、官僚の無策や失策によって亡くなった人の数や遺失利益というのも、相当数あるんじゃないかと思う。

公務員制度改革のあたりで、「公務員の天下りや待遇をなくしてしまうと、優秀な人材が集まらなくなる」という官僚の言葉にはちょっと呆れて笑ってしまった。あなた達の言う優秀な官僚が集まって「このザマは何なんだ」と某知事風に言ってみる。政治家が無能だとでも返してくるのかな。

文民統制

2008/11/10(Mon) Society

ほとんど石破氏が書いてしまっているけれど、個人的な補足。

石破茂(いしばしげる)ブログ: 文民統制

今回の問題は、田母神氏の行動とその後の政府の対応が文民統制の観点からどうであったか、の一点に絞って論ぜられるべきものです。

今回の田母神前航空幕僚長の問題は、「彼が発表した論文のような思想を持ち、その上で航空自衛隊の高級幹部になり、その思想を社会に発表し、政治が彼を更迭した。」ことまでを全て含めて正しい事だと思う。石破氏も言っているけれど、たとえそれが自衛隊の指揮官であれ総理大臣であれ、どういった思想を持っていても問題がないと憲法では定めている。もちろん、その職責に伴う行動をすることは前提。

田母神氏まではいかないにしても、過去を全肯定している自衛隊関係者は社会全体に占める比率よりも高いのではないかと思っている。田母神氏に対して「よく言った」と思っている自衛隊関係者も結構いるんじゃないかと思う。それは、きちんと職務を遂行するなら全然問題ない。逆に、こういった主張が鬱積し、彼らの中で自己完結した思想の進化が進んでしまい行動に起こされる方がよっぽど問題。

そして、若干彼らに対して理解を示してしまうのは、そのコントロールをする文民(軍人ではない者)が、政治家はもちろん国民も含めて、彼らの事を正しく認識し活用できているのかなぁという事。某番組でも言っていたけれど、イラク戦争のように文民が判断を誤る事もあるわけで(個人的には誤ったと思っている)。

死刑論もそうだけれど、こうやって異なる主張を持つ者同士がきちんと議論をしている状態が一番安定しているんじゃないかと思ったりする。「軍隊」ではなく「自衛隊」という言葉はなかなか的を射ている言葉ではないかと思っていて、その健全な思想のなかでぼくらがコントロールしていく事が大切なんじゃないかと思っているんだけど。残念ながら人間は、世界共通の思想を持てるようにはつくられていないのだから。