Posts Tagged ‘仕事’

それは首相の辞任のようで。

2007/09/14(Fri) *Pickup, Diary

ミセつく サービス終了のお知らせ

【重要】 ミセつく サービス終了のお知らせ

政治も大変ですが、僕自身も激動の一週間でした。正直なところ事実を事実として認識しただけで、まだ理解できていないというか、なにも想いが出てこない。引っ越しとか転勤とか転職とかは結構しているので、その時の感情を持ってきて、ただ淡々と、粛々と進めるようにしています。

ただそういう時と言うのは、引き継ぎ形なんなり一応完結させてからの事なので、やはり今回はちょっと違う。突然部屋の電気が消えて真っ暗になったみたいなもので、「えっ?」と思ってスイッチを何回もパチパチとしてみたけど、相変わらず暗くて何も見えない。ただ、明かりが消えたという事は分かる、というだけ。正直よくわからない。

そして個人としては、残りの仕事をきちんとやりつつも、次の仕事も探して決めないといけない。タイムリミットはあと8営業日。そして決断は、もっと早くにしなくてはいけない。もの凄く焦るのだけれど、焦って短絡的な選択をしてしまわないように、自分自身とゆっくり話し合って自分が納得して決めないと、どこに行ってもどうにもならない。

一人で考えていたらよく分からなくなってきたので、大分の(心の)姉に話を聞いてもらった。「そうなんやー。」と相づちを打ってもらいながら話していると、自然と落ち着いてくる。そしてこの記事を書く事でも、少しは整理が出来てきた。もう別に記事として公開する必要もない気がしてきたけれど、24才の夏の終わりは、あまりにも突然だったという事の記録として。

ぼうけんのしょはきえてしまいました。

2007/09/10(Mon) IT

朝会社に来てメールを書こうとしたら、ATOKが「辞書として扱えません」と出て変換できない。辞書ファイルをみたらファイルサイズが0KB、中身からっぽ。。。完全消滅。「僕なにもしてないよ」と初心者みたいなこと言っても直らないので、明日少しは同じ癖のある家のPCから辞書持ってきて再設定して、それでもだめだったら再インストールコースか。。。ああ欝。

しかし、亡くしてみて初めてATOKの素晴らしさを実感というか、MS-IMEのバカぶりを実感というか。よくこんなのでみんな仕事してるな。。。

となりのクレーマー

2007/09/05(Wed) Book

となりのクレーマー 表紙
となりのクレーマー
「苦情を言う人」との交渉術
関根 眞一 (著)

仕事でカスタマーサポートも担当する事になってそろそろ1年になりますが、カスタマー用の電話が鳴ると今でもちょっと緊張します。当然、僕らに非がある事もたくさんあります。でもたまに常識を逸脱しているのではないか、と思う時もあります。もちろん、こちらの都合で勝手にクレーマーにしてしまわないというのは前提で。

基本的に、問題なく商品が届いた人はこちらに連絡してくる事はないので、何かしら問題がある、気分を害している人がやってくることになります。こちらは通常業務をしていたり、楽しい話をしていても、あちらは準備万端で突然会話が始まります。こちらはお客さんがどういう状況なのか分からない。相手は明確な意志を持っているので、どういう状況で、どちらに非がある事なのかを電話やメールだけで把握しながら対応するのはとても骨が折れる仕事です。真摯に聞いて、非があるところは改善し、非がないところは理解してもらうまで説明する。ほんとうにそれに尽きます。

それはそれとして。一人の人間として、その仕事をどう楽しむか。という事の答えが、1年近くやっていてもまだ分かりません。営業のように何かが売れた!とか、そういうポジティブなことが少ない仕事。お客さんが抱えているネガティブな状況を受け、それを解決してなんとかプラスマイナスゼロまで持っていく。そんな事を毎日やっていると、一人の人間としてはとてもしんどい。お客さんがそう思うことも理解できるし、中の人として運用していてそれを解決するのが難しいという状況も理解できる板挟み。

ある人は、仕事以外でプライベートの楽しみを見つけると言っていた。ある人は、いかにスムーズに解決させるかを楽しむと言っていた。ある人は、それを自分で抱えず共有して負荷を軽減しろと言っていた。今のところ、そのどれでも解決はしなかった。まあやりはじめて1年ですから、まだまだ模索の時期でしょうか。

ありえない

2007/09/04(Tue) IT

RSSがすべて「取得できません」というデータを「取得」

この会社はたまにあり得ない事をする。なんというか、ネットの世界には言葉には出来ない空気感があると思うのですが、その空気が全く読めていない事をする事が時々ある。「ネット」を「営業の商材のひとつ」と捉えている人もたまにいて、それを僕は否定しないけれど、僕はその考えでは仕事をしていないししたくないし、その考えを持っている人からmixiやGoogleのようなサービスはいつまで経っても生まれない事はたしか。たぶんそういう人は僕が何でありえないと言っているのか理解できないと思う。

ただ、ネットの空間をお金に換える力はもの凄くて、それはとても大切な事だ。その力は僕にはない。でもそれは必要条件であって十分条件ではない。この会社はとてもいい会社で、この会社で働けて良かったと思っているけれど、この点だけどうしたものだろうか。

アメブロ、ブロガーみんなで考える「Blog Action Day」を開催

ブログサービス「アメーバブログ(アメブロ)」でオンラインイベント「Blog Action Day」を開催。大盛況のうちに終了したことを明らかにした。Blog Action Dayは「参加ブロガー全員が同時に同じテーマのエントリを投稿する」ことで世間に特定の問題について関心をもってもらおう─とアピールするイベント。

Blog Action Dayがはじまったのは4日午後7時。アメブロは多くのタレントの公式ブログを抱えていることで有名だが、ほとんどの利用者がこの企画に賛同。みな一斉に「只今RSS取得が行えません」というエントリを投稿し、アクセスした人に驚きを呼んでいた。とつぜんすべてのRSSが取得できなくなった状態を疑似体験してもらうことで、自分たちがどんなにRSSに病的に依存しているかを気づいてもらおうという試みだ。効果はあったもようで、閲覧者からは「RSSに依存した“RSS脳”になると、イザというときどんなに危険かがわかった」「RSSは仕事に集中できない原因だしもう使うのはやめようと思った」などという声が聞かれた。

そういう事だったのか。。。

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隠された風景

2007/09/02(Sun) *Pickup, Book

隠された風景 表紙
隠された風景
死の現場を歩く
福岡 賢正 (著)

-無数の「死」があるからこそ我々の「生」がある。
 そして人が自らの「生」を実感するのは、
  他者の「死」にふれた時である。

 その「死」と生活の場で身近にふれることができなくなったことが、
  「生」をかけがえのないものとして慈しむ契機を
   人々から奪ってしまったのではないか。-

僕のブログはよく「暗い」といわれる。本人としては、静かに、普段あまり考えることのないそういう暗いとされているものをきちんと見つめることは大切だと思っていて、しかもそんなことを普段の生活の中で真面目に考えることはないのでブログで書いているのだけど、そんな事をしていると暗いと言われるのかもしれません。特に最近は祖父の死が会ってから、死や宗教といったものについて書くことが多いので、なおさらそう見えるのかもしれません。

普段一日中パソコンに向かって仕事をしていると、「生きている」と思うことはほとんどない。そんな僕が、祖父の「死」と触れることで、「生」を感じ、考えることが出来た。その経験や、最近考えたことが一つに繋がったのがこの「隠された風景」という本で、「野犬などのペットを殺す動物処分」、「牛や豚などの屠畜」、「人間の自殺」という普段の生活からは「隠された風景」に焦点を当てた本でした。

命は大切だ。犬や猫などのペットも、牛や豚などの家畜も、人間の命と大切さはなにも変わらない。その考えの基に動物愛護を訴え、保健所が動物を殺すことや、屠殺することを非難する人たちがいる。僕はどちらかというと、命が大切と言うところまでは同意するけれど、生きる上で必要な悪だと、この本を読むまでは思っていました。それは、ただ真剣に考えたことがなかったから。著者はその様子を下記のように示す。

つまり、日々動物の肉を食しながら、「動物を殺すことは残酷でいけないことだ」と考え、その仕事をしている人たちに白い目を向ける。そんな漫画のようなことが今もまかり通っているのである。その傾向は「動物好き」を自認する人たちにことさら強い。肉を食べるものが、家畜を育てたり、屠畜して肉をつくる者から完全に分離されていて、そこから目をそらすことができ、いのちをもらう事に伴う心の痛みを感じなくてすむ仕組みになっていることが、その劇画化された構図を支えている。

小鳥や犬や猫をペットとしてかわいがったり、すぐ「かわいそう」を口にして、すぐ涙を流す子どもたちが、他人が殺したものなら平気で食べ、食べきれないと言って平気で食べ物を捨てると言うことが、わたしには納得いかないのだ。わたしには、「生きているものを殺すことはいけないこと」という単純な考えが、「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」という行動と、何の迷いもなく同居していることがおそろしくてならない。

この本を読むのはしんどい。今まで目を背けてきた部分だから。でもしっかり読んでいくと、今まで見ていなかった所を直視すると、見えてくる風景がある。

(屠殺を経験した小学生の感想文)
私は、ころされた豚を見てなきました。でも、できあがった肉は、ないたことなんか、すっかりわすれて食べていました。私がないたのは、見せかけだけのなき方だったと思います。もし本当にないていたら、肉なんか見る気にもなれなかったと思います。私は、あの時、なぜないたかふしぎです。かわいそうでないたのか、それとも、自分をやさしくみせかけようとしてないたのかもしれません。

そして著者が提示した一つの答え。僕はそれに、共感すると言うよりも、納得をする。そうやって僕らは生きているし、それを手助けするために宗教があったりする。そして、僕が「死」に触れて「生」を感じたことも、とても自然なことだったのではないかと、今は思う。

人が生きるために他の生き物のいのちを絶つことは「殺す」ことでは決してない。自分の中で「生かす」ことなのだ。いのちを奪うだけで何も生かすことのない人や動物の殺戮とは、全く性質を異にする。

我々は「死」を身の回りから遠ざけてきたのと同様に、「死」を「生」に変える土を「汚いもの」として疎んじ、土から離れた生活を追い求めてきた。それは我々が「いのち」の循環性に目を向けず、一回限りの「自我の生」のみにこだわった文明を育ててきたということを物語っている。

「いただきます」とは「命をいただきます」なのだ。
一度読んでみて欲しい。ただそれだけ。

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 – 美濃邉惠一

2007/08/25(Sat) *Pickup, Clip

美濃邉惠一

NHK プロフェッショナル 仕事の流儀 – 美濃邉惠一

「建物の守り神」として屋根に鎮座する鬼瓦を作る美濃部さんを取り上げた回。

魂を込めた物作りをするために一番大切なことは何かという茂木健一郎の問いに、美濃部さんは集中して、自分の性格や私(わたくし)を殺して無の状態で作ることだと答える。たしかに、よく言われることだ。

それに対して住吉美紀アナウンサーが、「みんな私(わたくし)が生きた証を残そう残そうとして生きている。その中で私(わたくし)を消して仕事をしていくと、美濃部さんという私(わたくし)には最後何が残るんですか?」と問う。

美濃部さんはそれに、「瓦という文化を残していったなという気持ちやね。」と答える。聞いていて背筋がふるえた感じだ。おそらく多くの人は、住吉アナウンサーが言うように、自分が生きた証を残そうと、自分を起点に考え生きている。美濃部さんはそれと真逆で、自分を殺し、文化を残す。でも対局で考えてみると、その方が長い歳月文化として残り、次の世代に受け継がれ、延々と残っていく。

古いから、悪いのではない。新しいから、いいものでもない。古くてもすばらしいものもあれば、新しくても陳腐なものもある。美濃部さんの仕事を見てしまうと自分の仕事がなんてちっぽけなものかと思ってしまう。

「好き」という言葉から生まれた妄想の行方

2007/08/22(Wed) Diary

twitterで、「たった2文字なのに、キュンとしてしまう。言葉ってすごい。」というような事を言っている人がいた。たしかに、文字を書くということは、ただ日本語の漢字やひらがなという記号を並べているだけではなくて、記号を並べることによって単語という意味をつくり、そこから文章を作ることで感情をつくり、その感情を相手に伝え、相手の感情を揺さぶるという事なのかもしれないなぁ。と今更ながら思った。

日常会話然り、人は常に何かを伝えないと生きていけなくて、それを口頭ではなくもっと多くの人に伝えたくて文字が出来たのでしょう、たぶん。ブログを見ていれば、誰かに何かを伝えたいと思っている人の多いこと。そして、それを読んでいる人もいるわけで、誰かの言葉を知りたいと思っている人もまた多いこと。

これだけブログを書いている人が多いけど、ブログを書くためにかけた時間以上アフィリエイトで儲かるなんてほんと一握りの人。ということは、多くの人は、お金ではない何かを見返りにして書いているわけで、それがお金以外、実益以外のものでも人は十分に見返りに値する、そういう生き物なのでしょう。

そもそも大昔にはお金なんてなかったわけで、やはりそれは人が生きる上での本質ではないのでしょう。それは空気のようで、必要ではあるけど、やはり空気も生きる上での本質ではありません。神というものが仮に存在するとして、創世記で人をわざわざ二人作ったことに子孫存続以外の意味があるとするならば、それは他者の存在を認めて、ある時は伝え、ある時は聞き、その感情を変化させながら生きていかせるためなのでしょうか。

それを本質として定めたのか、ただのお遊びだったのかはわかりませんが、現に人はそれをフル活用して正しいこともすればアホな事もして、変化しながら生きてきました。それは必ずしも進化と呼べる物ではなく、時に進化し時に退化しながら、とりあえず今生存しているわけですが、どうせなら、過去から受け取ったその変化しながら生き続けるバトンを、少しでもいい形にしてまわりに、そして次の人に渡していくのがいいことなのかもしれません。

ということで、人が生きるという意味の本質は、何かを伝えることではないかと、会社でクリームコロッケ弁当を食べながら思ったので、今こうして書いています。それは何も言葉だけではなく、仕事で何かを売ってその商品の良さを伝えたり、本を書いて自分の知識を伝えたり。そしてその時の友となるのが考えるということで、その過去の実績が知識なのかもしれません。全てのことは、伝えると言うことの枝葉なのかもしれません。そしてすなわち、生きるということの。さて仕事します。

デスノートを使う人は人間失格

2007/08/20(Mon) Book

人間失格 表紙
人間失格
太宰 治 (著)

どうなんでしょうか、この表紙。表紙と内容のギャップで意表を突く(あっさりした表紙なのに濃厚なストーリーだった)とかはアリだと思うのですが、そういう意図ではないだろうし、かえって表紙と内容双方にとって価値を下げているだけだと思うのですが。小細工してないできちんとした仕事をしてほしいと思う今日この頃。編集者ってこういう事をするための人ではないと思うんだけど。

はたして、この本を手にとって、最後まで読み切る読者がどれくらいいるのか。
でもまぁ、売れてるからそんな事はどうでもいいんだろうね。

春と秋の間で。

2007/08/15(Wed) *Pickup, Diary

iwalogを書き始めてから、丸4年になりました。24年間しか生きていない僕の4年間、僕の人生の10分の2が、ここに記録されています。この調子でいくと、30歳の時には3割が、40歳の時には5割が記録されることに。そのときまで続けられているのかは分かりませんが、こればかりは飽き性の僕でも続けられそうな気がします。そのとき僕はどうなっているのか、過去のこのエントリを見て何を思うのでしょうか。

今年は厄年だからなのか、いろいろと変化がありました。それらの結果で、自分自身で一番大きい変化は、前にも少し書きましたが自分の中の優先順位が変わったことです。それまでは「仕事」が一番で、それ以外との差は比べようがないほど差が付いた絶対的一位だったのですが、今は仕事以外のことも含めて順番に綺麗に並んでいて、絶対的一番ではなく、いろいろな物の中の一つ、になったように思います。たぶんそれが普通なのでしょう。

それはいろいろなものに関わる必要が出てきたからで、局所的に見れば仕事にさける時間やあたまは減っているのですが、それ以外のところでやらないといけないことが出てきて、全体的に見れば動いている時間はあまり変わっていなかったりします。逆になれないから疲れたり。

早く社会に出た分、そういうことに関わる必要も早く来るのかなぁなどと考えたりもするのですが、30才になってそういうことに全然関係なく生きている人を見てもうらやましいと思うこともないので、それは人それぞれなのでしょうか。とりとめのない文章になりましたが、猛暑だった2007年の夏は、この文章のようにどこかとりとめのない夏だったという記録として、このまま残しておくことにします。

2007.8.15
IWASAKI Yusuke

人生を変えたコメント

2007/07/24(Tue) Diary

久しぶりにiwalogへの被リンク(=iwalogにリンクしてくれているサイト)を調べてみたら、意外な人のブックマークに登録されていることを発見。その人に読まれていると思うとなんか自由にかけない気がしてきた(汗。

僕が前職の時、今の会社の社長が求人雑誌の表紙に載っていたので買ってみた。その雑誌に、当時人事にいたその人の人事担当者としてのコメントが載っていて、何を言っていたのかはもう忘れてしまいましたが、そのコメントを読んでから今の会社が「地元の人が東京で作ったIT会社」から「働いてみたい会社」に変わった瞬間でした。

会社に入ってから、たまにすれ違う程度でほとんと仕事で絡んだことはないのですが、一度だけ面談したことがありました。その時は、あまりいい状況での面談ではなかったのですが、いろいろと諭していただきました(怒られていたのかもしれませんが)。

エントリのタイトルはちょっと大げさでしたが、一方的にそういう経緯もあったので、なんとなく素直にその人とは話ができたように思います。しかし、ほんとに思わぬ人に読まれてる。とはいえ、赤裸々に書き続けているし、読まれていることを意識して書く内容を制限できるほどおりこうでもないので、相変わらずでやってきます。